岡本 雅享 著 筑摩新書1452 (2019/11/4)
価格: 940円+税 2019年11月4日
幕末に生まれ、出雲大社の国造として生き神様と呼ばれた千家尊福(せんげたかとみ)。大社教初代管長、政財界の要職を歴任し声望を集めた希代の偉人の生涯を辿る。
明治42(1909)年に雑誌『太陽』(15巻6号)が、全国読者の10万人を超える投票結果により発表した「宗教界の泰斗」。そこで大谷光瑞(3万810票)や内村鑑三(1万242票)を大きく引き離す4万7838票で1位に選ばれたのが千家(せんげ)尊福(たかとみ)だ。この時「文芸界の泰斗」1位の夏目漱石が1万4539票、「政党首領適任者」1位の犬養毅が1万7525票だったことからも、尊福の人気がとび抜けて高かったことが分かる。 弘化2(1845)年生まれの尊福は、幕末から明治・大正前期を生きた第80代出雲国造(こくそう)である。古代王の末裔とみられる出雲国造は延暦(えんりゃく)17(798)年に政治的権力を失い、杵築大社(きづきのおおやしろ)(1871年から出雲大社が公称)の祭祀(さいし)に専念してきた。古代から出雲臣(おみ)を姓としてきたが、14世紀半ばに千家・北島両家に分かれて大社の宮司を分担し、幕末に至る。その出雲国造は明治初期の日本において、天皇と並ぶもう一人の生き神で、天皇に匹敵する宗教的権威をもっていたと、原武史放送大学教授はいう(『<出雲>という思想』)。
明治23(1890)年、第81代尊紀(たかのり)国造に謁見したラフカディオ・ハーンも、ダライ・ラマに比肩する生き神であると、世界に発信している(『Glimpses of Unfamiliar Japan』)。 王政復古・祭政一致を大義名分として徳川幕府を倒した明治政権は、当初神道国教(宗教)化路線をとった。明治5年、27歳の尊福が、その国民教化を担う全国教導職の最高位・大教正と、全国を二分する神道西部管長となり、近代日本宗教界の第一線に躍り出る。彼は同時に、列島各地に広がる出雲講など信者団体を結集し、近代的な教会を設立。歴代国造の中で初めて、自ら列島各地を幅広く巡教した。生き神視された尊福の説く教えは、各地で熱狂的に迎えられた。出雲大社教会(のち大社教)は大きく発展し、明治末には教徒数433万人、すなわち全人口の1割近くが大社教の信者という教勢に至る。 明治10年代には東京の神道事務局神殿で大社の祭神・大国主大神を祭るか否かをめぐり、全国神道界を二分する祭神論争が勃発した。拒む伊勢神宮の田中頼庸(よりつね)大宮司らが伊勢派、尊福の支持者たちが出雲派と呼ばれ、13万人以上を巻き込む対立に発展。収束を図るべく介入した政府が「神道は宗教に非ず」との国家神道路線へ舵を切る契機ともなった。 この祭神論争で、教法の信念を捻じ曲げる政治の力を知った尊福は、自ら教道の守護者たらんとして、政界入りを決意する。そして大社教で培った組織力・指導力で、貴族院内会派を率いる一方、埼玉・静岡県知事、東京府知事を歴任し、数々の功績を残した。明治末には西園寺公望内閣の司法相、転じて東京鉄道株式会社の社長に就き、政財界の重鎮となる。晩年は大社教に総裁として復帰し、生涯をかけて列島各地を巡教した。 これほどの人物であるのに、今年に至るまで、その生涯をまとめた伝記が存在しなかった。本書の執筆動機と意義を一言でいえば、それに尽きる。祭神論争関係では多くの文献がある。拙稿「二人の現津神―出雲からみた天皇制」(2009年論文、2014年刊行の拙著『民族の創出』に所収)も、その線上にあった。当初は天津神〔あまつかみ〕=天神〔てんじん〕と国津神〔くにつかみ〕=地祇〔ちぎ〕(105頁)を代表する伊勢・出雲を二大支柱として神道国教化を図った政府。それが神道の非宗教化へと転換し、伊勢・靖国を柱とする国家神道へ向かう岐路となった事件に、人々が注目するのは当然だ。だが尊福という人物で見るべき点は、祭神論争だけではない。 民衆に安心立命を与える宗教としての神道を真摯に追求した尊福の試みは、自分は無宗教だと思う人が多い、現代日本人の精神的拠り所を考え直す契機となろう。彼が唱えた「徳義による治」は欧米型の民主主義とは違うが、倫理崩壊が甚だしい昨今の政治を目の当たりにする時、新鮮で頷ける点も多い。生き神と崇められた宗教的カリスマ、今も歌い継がれる名歌を残した歌人、卓越した組織力をもつ指導者。埼玉・静岡県民、東京都民にとっては、近代の県政・府政で評価が高かった首長という点で、興味深いのではないか。 大社教が急速に発展し得た要因として、尊福のもとに結集した優れた人材群も見逃せない。本居宣長の曾孫・豊頴(とよかい)など、それぞれが千万を数える人々のトップに立ち得る逸材が、尊福のもとで大社教を支えた。彼らを惹き寄せた尊福の人的魅力は何だったのか。そして彼らの能力を存分に発揮させながら、巨大な組織をかじ取りした手腕など、組織の指導者や経営者には、興味深い点であろう。尊福がもつ多面的な魅力のいずれに注目するかは、読者各位の関心にお任せしたい。 なお近代における大社教興隆の背景には、古代から近世にわたり、列島各地に息づいてきた出雲信仰の広がりという基盤もあった。筆者は前作『出雲を原郷とする人たち』で列島各地の出雲系古社を巡り歩いた時、百年以上前の尊福の足跡にたびたび出会った。尊福らは、その古からの縁に、新たな縁を加えていったともいえる。中近世には、今も多くの参拝者を惹きつける福の神・だいこく様、神無月の神集いや縁結び信仰が庶民の間で広がった。明治維新当時、23歳だった尊福が、わずか数年で全国宗教界の最前列に浮上し得たのは、大社から列島各地に派遣され、これらの民衆信仰を広めた御師(おし)(布教者)などを通じて諸国の動向を把握し、時代の変化に素早く対応できたからでもあろう。 列島各地に散在する古代の出雲系神社、その後中近世にかけて民衆の間に根付いた出雲信仰。本書では、これら尊福登場の基盤にも目を配りながら、尊福の生涯と近代出雲信仰の広がり、それを支えた人々との繋がりをまとめてみたい。