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千家尊福と出雲信仰 
試し読み②

 

▼P.190-206第8章 政〔まつりごと〕への回帰――埼玉・静岡県知事としての功績

 巡教中に偶然出会った伊藤博文に誘われ、尊福は明治二一年、政界に入る。祭神論争の苦い経験から、立憲政体の樹立にあたり、宗教が疎かにされぬようにとの思いによる政界入りだった。尊福は貴族院議員を兼務しながら、埼玉県、続いて静岡県の知事となり、〝徳義による治〟を目指し、数々の功績を残した。各地に広がる大社教の人脈・ネットワークが尊福の県政を助ける。いっぽう尊福は、農事改良などで大社教と親和性がある報徳運動(二宮尊徳〔そんとく〕=金次郎の教えを実践)ともつながり、協力関係を築いていた。

†伊藤博文の誘いで政界入り――貴族院で頭角を現す

 尊福が福岡巡教を終えた明治一八(一八八五)年一二月、政府は内閣制度の創設に伴い、太政官を廃止した。王政復古の維新体制から近代立憲国家への変貌の序幕だ。初代内閣総理大臣の伊藤博文は二一年四月末に首相を辞し、憲法起草のため新設した枢密院の議長となる。大社教管長として各地を精力的に巡教していた尊福は、ある時、神戸から東京へ向かう汽車の中で、偶然その伊藤と出会い、語り合ったという。尊福にじかにふれて、その才覚を悟った伊藤は、尊福を政界に誘い込む。その年月は不明だが、伊藤は二一年三月七日、内務大臣山県有朋が蒲田〔かまた〕で催した在京の各県知事、内務書記官の野遊に尊福を誘い、黒田清隆(農商務大臣)ら諸大臣に引き合わせ、自らは高輪の邸宅で二時間余り尊福と会談している(『大社教雑誌』第二三号)。車中の対談は、その少し前であろう。尊福が元老院議官に任じられたのは同年六月七日だ。この時四三歳で政界に入った尊福は、その後、帝国議会開設に伴い貴族院議員となり、埼玉・静岡県、東京府知事を歴任、司法大臣にも就くことになる。

 出雲国造〔こくそう〕は延暦〔えんりやく〕一七(七九八)年に意宇〔おう〕郡大領の座から外され、政治的権力を奪われて以来、杵築大社〔きづきのおおやしろ〕で出雲大神の祭祀に専念するようになり、幕末に至った。その出雲国造の末裔である尊福が、実に一一〇〇年の時をへて政まつりごとに回帰したのである。元老院議長として憲法制定に精力を傾けていた伊藤は、帝国議会発足後の日本政治を担い得る人材を欲していたのだろう。伊藤は足掛かりとして、尊福を枢密院と密接な、立法を掌る元老院の議官に任命した。

 いっぽう尊福はその任官前に、第二代首相となった黒田清隆へ神道興隆や立憲政体に関わる四通の意見書を送った。そこで尊福は「独逸の如きは立憲君主政体にして英国は立憲君民同治なり、米仏両国は立憲民主国にして即ち共和国なり……我国の立憲政体は独に模するか、英によるか」などと述べている。尊福が在野の宗教者でいながら諸外国の政情に通じ、立憲政体について熟考していたのが分かる。伊藤と車中で対談した時、尊福は世界の趨勢から日本の前途を見わたし、国会開設後の先覚者の心得などを淀みなく論じ、伊藤はこれほどの偉材を野に置き続けるべきではないと、元老院議官に推したという。政治的見識も評価しての抜擢だったのだ。

 尊福は自らの政治観を二一年春、著書『国の真柱』で公表する。巻一冒頭で、立憲政体の樹立に当り、天下に率先して尽すのが国造家「祖先の遺志を継ぐ」ことで、今なさねば時期を失うという記述に、尊福政界入りの動機が窺える。同書で尊福は、この大改革で方向を誤らぬために、憲法制定前の段階が重要で、その際に人心を感化し気風を養成する宗教をおろそかにすべきでないとも説く。七年前、祭神論争の勅裁による終結で、大半が賛同した大国主大神合祀論を捻じ曲げた政治の力を痛感した尊福は、自ら政界に入り政治力をつけることで、教導の道を全うできる世にしたいと思ったのだろう。

 尊福には政治家へ「転向」する気などなかった。元老院議官就任の前月に出した『国の真柱』巻二で、人を救い国に資する教法なれば、時弊を正したり禍を未然に防ぐ上では、政治家に先んじる位の智略・才力が必要と説き、教法家は世の先導者となるべきと記す。そのための政界入りだったのだ。だから尊福は当初、宗教者のまま元老院議官に就くつもりでいた。だが就任の翌(二一年六月八)日、同議官の柳原〔やなぎわら〕前光〔さきみつ〕(大正天皇の伯父)が憲法起草中の法制局長官・井上毅〔こわし〕に、議官になった尊福は神道家で、依然大社教管長の座にあり、説教を行い民衆の葬儀で斎主を務めても差支えないかと照会。尊福は同日付で大社教管長を辞することになる。尊福自身、予期せぬ突然の辞任で金子有卿〔ありのり〕・本居豊穎〔とよかい〕の両副管長が代行するも、大社教では長らく管長不在が続いた。尊福の甥、千家尊愛〔たかあき〕(一八六六~一九一九年)が二代管長に就くのは二三年六月だ。尊福は各地で信徒に「先般仕官につき直接布教の職を辞したれども、その主義精神は少しも変じたるに非ず」と説いている。  

 国政では二二年二月に帝国憲法が発布され、翌年一一月帝国議会が開かれる運びとなる。一七年制定の華族令で男爵とされた尊福は、二三年七月の貴族院議員互選会で男爵議員中の上位で当選。八月末には岩倉具定〔ともさだ〕(具視の子)や徳川家達〔いえさと〕(慶喜の後継、徳川宗家一六代)らと共に一五人の政務調査委員の一人に選ばれ、第一期帝国議会で第七部長に就く。こうして議会発足当初から有力議員として頭角を現した尊福は、その後(一期七年の)貴族院議員を、薨去する大正七(一九一八)年一月まで四期・二七年半にわたり、続けることになる。

†埼玉県知事に就任――〝難治の県〟を任された人望

 教法の信念に基づき政界入りした尊福は、明治二五(一八九二)年八月成立の第二次伊藤内閣の下、文部省普通学務局長(同年一二月就任)をへて第七代埼玉県知事に就任した。二七年一月二〇日、時に尊福四八歳の冬である。当時の文部省は専門学務局と普通学務局の二局構成で、その一局の長は今の局長とは違い、大臣に次ぐ要職だったが、伊藤にとっては、政界に引き入れた尊福を、より重要なポストにつけるための、ステップにすぎなかったと思われる。戦前の県知事は、県民の直接選挙で選ばれる戦後と異なり、内務大臣が選定・任命していた。特に政党政治が力を得る前の藩閥体制下では省庁(特に内務省)の官吏が就くのが一般的で、官僚のキャリアがものを言ったのである。また当時は貴族院議員と、官僚や府県知事との兼任が可能だった。尊福を知事にと内務大臣・井上馨へ直接推挙したのは、貴族院内で同志を集め研究会を主導する尊福を見ていた、議長の蜂須賀茂韶〔もちあき〕(元徳島藩主)だったという。

 その頃の埼玉は「難治の県」と言われていた。江戸を擁する武蔵国から東京と神奈川の一部を分離した埼玉県は、近世十数の小藩が乱立していた地域でもあり、新たな中心や予算獲得をめぐる地域間の争いが激しかった。その中で内務官僚出の第五代知事・久保田貫一(士族)は、中央政府にのみ忠実で、衆議院選で強圧的に民党(改進党・自由党)を妨害し、師範学校の教師・生徒とも対立するなどして、県会・県民の反発を受け失脚(県会で弾劾され、二五年一二月に左遷)。第六代の銀林綱男(平民出身の官吏)は県会に媚びていると中央政府から批判され、短期(一年一カ月)で非職になった。それ故「埼玉県政を円満に治められる人物」として、尊福が選ばれたという。

 当初、地元紙『埼玉民声』には「幽〔かく〕り世を治める大国主に仕え奉れる御身」の尊福が現うつし世を治めるのは「いともったいなし」と驚き、また宗教者に県政が治められるのかと疑う記事が載った(第二〇号)。だがその評価は就任二日目の行動で一変する。この日、尊福は県内の郡長・警察署長を集めて行われる所信訓示で、直後の県会議員選挙での妨害行為を厳禁し、従来なかった出席者との懇談も催した。『埼玉民声』は次の二一号で、新知事は「縉紳〔しんしん〕(高貴)の家に生長せし人に似ず……民間の俗情に通貫し、なかなか公卿様と受取り難いほど気敏の振舞あり」と記している。

 尊福は祭神論争以来、列島各地を駆け巡ってきた。その中で嵩んだ出費で、千家家の資産が傾きかけた一〇年代後半のこと。家の子郎党が集まり「あなたは唯ここにじっとしていれば、人が皆神様扱いしてくれるのに、日本中を駆け廻り、人にもバカにされ、家の財産を倒すのはよくない、もう少し謹んで家にいてほしい」と尊福に諫言したという。この時、尊福は「自分が奔走しているのは栄誉名達のためではない、止めてくれるな」と答えた。

 民衆の間では依然、生き神視される尊福だったが、祭神論争で対峙した元薩摩藩士・折田年秀(当時湊川神社宮司)の日記には「千家尊福、副管長の事につき憤激して退局す、実に狭小笑うべきの不体裁」(一三年四月二一日)、「千家より別立云々申遣したり、田中(頼庸〔よりつね〕)に(ては)大笑い」(一三年六月二二日)などと、大国主大神合祀論を真摯に説く尊福をあざ笑う記述が散見される。このような国造を嘲笑する人物にも接した祭神論争での経験、その後も列島を駆け回り、多くの民衆と接した巡教が、尊福の視野と度量を政界の第一線でも活躍できるほどに、高めたといえよう。知事就任に際し、束帯を脱ぎ、紅塵にまみれ、功を願わず、県政に努めんという思いを漢詩に託した尊福は、二七年四~六月にかけ延べ四四日間にわたる大規模な県内巡視を行い、各地の郡長や町長から産業、教育、衛生など多方面の実情を直接聴いた。新潟や福岡での長期「巡教」で培った経験が活かされ、尊福はこの埼玉「巡視」でも民衆の心を掴んだことだろう。

†〝徳義による治〟を目指した尊福の埼玉県政

 尊福が三カ月に及ぶ埼玉県内巡視を終えた直後の明治二七(一八九四)年夏、日清戦争が勃発する。各地で義勇兵を組織する動きが起ると、尊福は八月一一日付県報で「国に常制あり、民に常業あり」故に非常徴発の場合でなければ「国民たる者、各々その常業に安んじ」るべきで、現今その必要はない、と制する告諭を出した。

 尊福は在任中、こうした県民の心構えを説く告諭をたびたび出している。教育、衛生、産業など、その数は二二件に及ぶ。「世の先導者として立ち、人を救ひ、国を利する」という『国の真柱』で述べた教法の信念を実践したのだ。大社教で生と死二つながらの安心立命を説いてきた尊福は、各地で催される戦死者の慰霊祭へも、よく出向いた。

 戦中は戦費調達で県の事業が縮小されたが、翌二八年春終戦に至ると、尊福は直ちに懸案事項の解決に乗り出す。埼玉県は当時、全国で唯一中学校のない県だった。県会と激しく対立した第五代久保田知事の設置案は悉く否決され、第六代銀林知事は任期中、提案を出せなかった。尊福は五月の臨時県会に尋常中学校設置案を提出。自ら県会議長の自邸を訪ね協力を求めるなどして県会とのバランスをとり、浦和と熊谷二校の新設を実現した。

 尊福は『国の真柱』で、政府が施政方針を公にして国民に示し、言論自由の道を開いて国事に関する利害得失を論じさせ、努めて世論に従い治を計るのが「官民一致和合の根本」と説く。また、神意は人を独立自治の地に立たしめんとするもので、神道の拡張に尽力する者は、人民の権利を伸張する上での障碍〔しょうがい〕を除くべきだとも説く。尊福は同書で君主から家長、富豪や学識者に至るまで、社会的な優者が己の恣ほしいままにすれば、劣者の不幸はこの上ないから「長たる者は率先して己を慎み、正しくして謙譲の徳を養う」重責があると、徳義による治も唱えた。尊福は単に観念ではなく、「英国人が鴉片は人身を害すると知りながら、中国に輸出して利を得るが如きは、人を害するも己の利を得んとする者にして、実に徳義心の許さざる所なり」などと、実際の社会状況を挙げながら、それを説いている。

 こうした理念や姿勢から、尊福は「温厚の君士人」として県民から尊敬され(『埼玉県政と政党史』)、三〇年四月まで、当時としては長期の三年二カ月余の任期を務めた。この間尊福が県会で再議に付したのは、測候所新設と農事改良費の二件だけだ。二〇年八月の勅令四一号(気象事業令)を受け、各府県は次々に気象を観測する測候所の設置へ向かったが、埼玉県では県議会が二二、二四、二六年も「不急の施設」として予算案を通さなかった。県会は尊福が出した設置案も否決する。すると尊福は二八年一一月の通常県会で再び提案。それが否決されると翌一二月末、再議に付すとともに、自ら議場に立ち、他府県が続々と測候所を設ける中、県民が受けるべき利益が損なわれると力説し、多数決での承認を導いた。こうして埼玉県初の測候所が二九年に熊谷で開設される。

 また尊福は、産業分野の技術指導と産業者の組織化を図り、二八年度に農業巡回講話を開き、製茶と製藍〔せいあい〕の伝習所を設置した。だが県議たちは、埼玉は元来土地が肥沃だとして、農事改良への関心が低く、尊福が提出した農事改良費を認めなかった。尊福は二八年一二月末の通常会で「今日の進歩を以て小康に安んずるべきではない」とし、「県民の多くが従事する農業の改良は急務」で、土壌の改良や耕作農具の研究には「学理を以て実地に応用すべき」だと、自ら議場に立って演説。県会は農事改良費を復活承認した。尊福は県・郡・町村の三段階にわたる系統的な農会の設置(組織化)を計画し、在任中の三〇年三月までに一〇四町村、一郡に農会ができた。

 いっぽう出雲大神の農業神としての信仰から、出雲大社境内に農工物産展覧所を設けていた尊福は、埼玉県でも特産品の蚕〔さん〕業・織物業の振興を図る。その一環として第四回内国勧業博覧会(明治二八年四~七月、京都)に埼玉県は三〇〇余点の繭〔まゆ〕を出品し、うち一一二点が受賞する成果をあげた。

 大社でいち早く図書館や博覧会も開催していた尊福は元来、社会事業への関心が高かった。一八年の福岡巡教でも、旱魃〔かんばつ〕による農民の飢餓・窮乏を救うため、一一町八反余の新田を開く本城村(北九州市八幡西区)の開拓を行った大庄屋、佐藤扇十郎の家を訪れている。元老院議官時代の二一年九月には大規模な水害を被った岐阜県の大垣を訪れ、自ら水害地の惨状を視察した。そうした交流・見聞・体験が、二九年に埼玉を襲った水害への対策(次年度の国庫補助費を待たず、出水期に備え工事を着工)などで活かされたと思われる。

 こうした県知事の職務の傍ら、尊福は県内発行の雑誌によく漢詩や和歌を載せた。かつての出雲御師たちが文才を活かして檀所の人々と円滑な関係を築いたように、埼玉県民も文人尊福に親しみを覚えたことだろう。

†尊福と埼玉――歴史と信仰で結ばれた縁  

第2章で述べたように、出雲国造と埼玉の間には、古代に遡る深い縁がある。大宮鎮座の武蔵国一宮・氷川神社は、出雲族の兄多毛比〔えたもひ〕命〔のみこと〕が武蔵国造となり、奉斎した社とされる。その社名は杵築大社の近くを流れる斐伊川(簸川)に由来すると、『新編武蔵風土記稿』はいう。県内には古代当地に来住した出雲人が建てたとみられる式内出雲神社も二社あり、出雲大神や出雲国造の祖とされる天穂日〔あめのほひ〕命〔のみこと〕などを祭る。氷川神社は今も県内に二〇四社あり、主に出雲大神を祭る久伊豆〔ひさいず〕神社(五四社)や天穂日命を祭る鷲宮〔わしのみや〕神社(六〇社)もあって、出雲系神社の存在感は大きい。  

そんな埼玉県民にとって尊福の知事就任は、古代武蔵国造の本家本元が千数百年の時を超えて現れたようにも映ったであろう。明治三三(一九〇〇)年刊行『維新後に於ける名士の逸談』には、その就任にあたり、神職たちは生き神様のご光来と喜び、庶民は小さな郷社や村社にも気を配り「樹木折るべからず」「鳥魚捕ふべからず」の制札を新たに建てたとある。尊福の治世を快く受け入れ、一〇年務めた東京府知事より多くの事績を語り継ぐ背景には、埼玉ならではの状況があったとみられる。

 尊福自身も早くから、埼玉との縁を結び重ねていた。式内出雲伊波比〔いわい〕神社を受け継ぐ出雲祝神社(入間市宮寺)の本殿には、尊福が七年秋に当社を訪れ、揮毫・奉納したという扁額が掛かる。尊福は一四年春にも同社を訪れ「牟佐志〔むさし〕国造御社」の石碑を立てた。

 児玉郡肥土(神川町)の旧庄屋・高橋家には、尊福が従五位の頃(明治五~一三年春)に書いた祖霊祭用の軸が残る。自家で建立した出雲神社を氏神とする同家では、近代高橋家の礎を築いた第八代周兵衛(一八三四~一九〇八年)が明治に入り、天穂日命を祭る廣野大神社の神主肥丹〔ひたん〕家の再興を図った。自ら名を肥丹真守〔まもり〕と改め、同社と素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕を祭る金鑽〔かなさな〕神社の神官を兼任。埼玉県立文書館が所蔵する高橋家文書の中には、その周兵衛に尊福が一七年八月八日付で送った、大社教への附属を認める書状がある。同家の出雲神社に尊福揮毫の扁額が掛かり、その内殿中央の扉に大社教の教紋が浮き彫りにされている所以だ。資産家でもあった周兵衛は、大社教の活動を資金的にも支えた。高橋家文書の中には、尊福が出雲大社保存会長名で二一年一一月八日、周平に贈った感謝状もある。

 近くの小茂田(美里町)でも一七年、北向〔きたむき〕神社(児玉郡美里町、須佐之男〔すさのお〕命・大己貴〔おおなむち〕命・少彦名〔すくなひこな〕命を祭る)の境内に大社教会が開設された。安政三(一八五六)年に平田篤胤の没後門人となり、幽冥主宰大神を祀る祖霊殿を設けていた同社の岡本一馬宮司(一八一二~九九年)が、尊福の教えに共鳴したのだ。一八年の教会署名簿には二四七人が名を連ねている。児玉郡一帯は今も、関東で出雲大社の神札配布が突出して多い。二〇一七年に再訪した際、岡本一雄宮司に尋ねると、大社教の玉串配å布世帯は児玉郡と本庄市で一万五〇〇〇世帯(伊勢の玉串は一万八〇〇〇世帯)、北向神社だけでも一八〇世帯にのぼるという。神社境内に置かれた大社教の小茂田教会は現在、大国主命・須勢理毘売命を主祭神とする惟神〔いっしん〕祖霊社に受け継がれ、北向神社が担う神葬祭は二一〇世帯に及ぶという。

 高橋周兵衛が神職を務めた金鑽神社には、二八年四月一五日、尊福が埼玉県知事在職中に、勅使としてあげた祝詞が残っている。尊福は知事時代、政務の傍ら氷川神社などの祈年祭や新嘗祭にも度々、奉幣使として参向した。二八年秋には同社宮司の請願に応え、明治維新で大己貴命と稲田姫命を外し、須佐之男命一神とされた祭神を三神に戻すよう内務省に申し出る。同省は翌二九年春、これを承認。祭神論争の苦い経験をへて、(出雲)神道の守護者たらんと願って政界入りした尊福の思いが叶った一件といえよう。

 高橋家文書には、尊福が埼玉県知事名で周兵衛に送った書状や、同県知事退任間もなく第九代周平(平凡社の創業者・守平の父、一八五八~一九〇〇年)に宛てた書状(三〇年六月一日)もある。周平は一七年から県議を三期務めた。二八年秋から三〇年春の三期目は、尊福の知事時代と重なる。県会には出雲信仰で結ばれた有力な支援者もいたのだ。

 尊福は三〇年四月、静岡県知事に転任したが、埼玉との縁を保ち続けた。その形跡は今でも埼玉県内の随所に残っている。尊福は三三年七月に岡本一馬が没すると、その功労を称える歌を贈った。「百歳〔ももとせ〕に近くなるまで尽しきて遠く残しし功〔いさお〕多しも」の歌を刻む石碑が、今も北向神社の境内に立っている。さいたま市緑区大字南部領辻の鷲神社の境内にも、尊福が贈った歌「氏子等がまことにめでて御こころをあわせて神やいや守るらん」が刻まれた石碑がある。明治四二年九月、神社合祀を機に氏子たちが拝殿を造営し直したのを記念して立てた、高さ約二メートルの石碑だ。また大宮の氷川神社境内には、大正二年一二月に石鳥居を建立した際の敷石寄附者を刻む石碑があるが、その冒頭には大隈重信・千家尊福・渋沢栄一の三人の名が、特に大きく刻まれている。