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千家尊福と出雲信仰 
試し読み①「第1章 出雲国造」

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第1章 出雲国造

 千家尊福〔せんげたかとみ〕の生涯をみる上では、まず彼が生を受けた出雲国造〔こくそう〕(家)について語らねばならない。古代から連綿と続き、民衆から生き神視される特別な家柄が、尊福の人生を大きく規定していくからだ。それは、ほとんど何も伝わっていない幼少・少年期を彼がどのように過ごしたかを、窺い知ることにもなろう。

†古代王の末裔

 出雲国造は古代においてヤマト政権に服属した出雲王の末裔とみられている。国造は一般に「くにのみやつこ」と読むが、第八二代出雲国造・千家尊統〔たかむね〕(一八八五~一九六八年)によれば、出雲では昔から音読み、清音で「こくそう」と呼んでいる。尊統は著書『出雲大社』で、国造は大化前代において、その国の土地を領し人民を治め、祭政の一切を司り、その機能を世襲する地方君主であったとも述べている。歴史学者の故門脇禎二氏は、古代の列島にはツクシ、キビ、イヅモ、ヤマト、ケヌなど独自の王権、支配領域、統治組織、外交等の条件を備えた地域王国が複数並存していたが、互いの交渉や競合の中でヤマト王国が台頭し、他の王国を統合していったとする。国造は一般に、倭〔やまと〕勢力に服属した各地の豪族を地方官に任命したものとされるが、瀧音能之〔たきおとよしゆき〕著『古代の出雲事典』などが倭政権から「半独立状態ともいえる権力をもつ者もいた」とするのは、豪族レベルを超えた地域王国の王が国造に転じたとみられる例があるからだ。その最たるものが、一国一国造を維持し続けた出雲国造だといわれる。統一を目指す倭政権は律令制の導入に伴い国造を廃止し、畿内から諸国へ国司を派遣するようになり、国造は一般に統治権を失ったとされる。しかし出雲国造は律令制下でもその称号を維持し、出雲国意宇〔おう〕郡の大領となり、一族の出雲臣〔おみ〕が楯縫〔たてぬい〕郡の大領、仁多〔にた〕郡・飯石〔いいし〕郡の少領になるなどして統治権を維持し、その影響力は根強く残った。『続日本紀』の文武天皇二(六九八)年三月九日条には、出雲国意宇と筑前国宗像〔むなかた〕だけは、郡司に他では禁じた三親等以上の連任を認める特例を詔で出したとある。現存する風土記中、ほぼ唯一完本で残る出雲国風土記(七三三年)も、国司ではなく第二五代出雲国造、出雲臣広嶋が編纂し、オミヅヌ神の国引き神話や「天〔あめ〕の下造〔つく〕らしし大神〔おおかみ〕」(大穴持〔おおなもち〕命〔のみこと〕)の巡行など、独自の出雲神話を綴る。そこでこの出雲大神が、自らが造り治めてきた国を皇孫に譲る一方、出雲の国だけは自らが鎮座する国として、青垣山を巡らし、治め続けると表明している(意宇郡母理〔もり〕郷)のも、当時の政治状況の反映だろう。

  出雲国造神賀詞〔かんよごと〕も、他に例を見ない儀礼だ。出雲国造は八世紀を中心に、就任にあたり朝廷に出向いて任命を受け、いったん出雲へ帰って一年間潔斎した後、再び入朝して神賀詞を奏上。また出雲に戻り、さらに一年の潔斎をした後入朝し、二度目の神賀詞を奏上していた。神護景雲二(七六八)年の出雲臣益方〔ますかた〕の奏上では、位と禄を賜わった随行の祝部〔はふりべ〕が男女一五九人と記録されるなど、出雲から毎回大規模な訪問団を派遣していた。延長五(九二七)年成立の『延喜〔えんぎ〕式』祝詞〔のりと〕に収まるこの神賀詞の中で、出雲国造は天皇〔すめらみこと〕の御世を賀しつつ、祖神天穂日〔あめのほひ〕命〔のみこと〕が国譲りに貢献し、また大和王権揺籃の地に座す三輪〔みわ〕山に大穴持命が自らの和魂〔にぎたま〕を鎮めたと語る。

 出雲国造が政治権力を失い、出雲国内諸社の祭祀のみに携わることになるのは、朝廷が延暦〔えんりやく〕一七(七九八)年三月二九日付けの太政官符で、出雲国造の意宇郡大領(郡司の長官)兼務を禁止してからだ。その後、出雲国造は居所を意宇郡から出雲郡へ移し、「杵築〔きづき〕の大社〔おおやしろ〕」(一八七一年以降「出雲大社」と改称)の宮司としてその職を世襲し続け、一四世紀半ばに千家家と北島家に分かれ、以来、両家で祭祀を分担し、幕末に至る。

 出雲国造が江戸時代も独自の立場を維持していたことは、徳川幕府が寛文五(一六六五)年、諸国の神社に対し、神職の叙位・装束についてはすべて吉田家の指図を受けるよう布告した際、独自の立場を主張して、大社・出雲国造はその支配を受ける必要はなく、出雲国では万事国造の処理に従うようにとの取扱いを受けている(寛文七年、永宣旨〔ようせんじ〕)ことからも窺える。こうした特異性から、原武史(放送大学教授)は『〈出雲〉という思想』で「出雲国造は、国造制が消えたはるか後の近代以降の日本でも、全国でただ一つ国造を名乗っており、天皇と並ぶもう一人の「生き神」だったのであり、天皇に匹敵する宗教的な権威をもっていた」と述べるのだ。

†生き神様

 民俗学者の柳田国男は『故郷七十年』で、一三歳まで過ごした播磨の辻川(兵庫県神東郡田原村=現神崎郡福崎町)時代の思い出として、こう綴る。「出雲から但馬〔たじま〕路を経てこの村を通過した国造家を迎えたことがあった。生き神様のお通りだというので、村民一同よそ行きの衣装を着て道傍に並んだ。若い国造様が五、六名のお伴を従えて、烏帽子〔えぼし〕に青い直垂〔ひたたれ〕姿で馬で過ぎていった時、子ども心に、その人の着物にふれでもすれば霊験が伝わってくるかのような敬虔な気になったようである。その国造様の姿が今もくっきりと瞼に浮かんでくる」。柳田は明治八(一八七五)年生まれだから、同一九年春に第八〇代出雲国造の千家尊福が岡山・兵庫を三カ月かけて巡教した時のこととみられる。

 いっぽう明治九年一〇月一八日付『東京曙新聞』は、愛媛で民衆が尊福を熱烈に迎えた様子を、こう伝えている。「伊予国松山なる大社教会所開業式執行の為、千家尊福大教正が出雲国より立越されし途中、同県下野間郡浜村に一泊せられし時、近郷近在の農民等が国造様の御来臨と聞伝えて、旅宿に群集せし老幼男女数百人にて、大教正の神拝されるため一寸座られる新薦〔こも〕を、群集の者ども打寄って掴み合って持行くもあれば、又這入〔はいい〕られし風呂の湯は、銘々徳利〔とつくり〕に入れて一滴も残さぬ程なり」と。

 いずれも、生前から神として崇められた貴人が接した物には聖なる力が宿るという生き神信仰に基づくものだ。それが出雲国造に対し、中国・四国の幅広い地域で存在していたことが窺える。弘化二(一八四五)年八月六日生まれの尊福は明治五(一八七二)年一一月に第八〇代出雲国造となるが、同一五年三月、国造職を弟の尊紀〔たかのり〕に譲り、大社教を創始し初代管長となった。そのため尊福が国造だったのは正確には一〇年足らずだが、生涯にわたる列島各地の巡教の中で、生き神・出雲国造として迎えられ続けた。

 出雲大社教の今西憲大教正(一九〇〇~九一年)は、千家尊有〔たかもち〕第三代管長にお供し岡山県美甘〔みかも〕村を訪れた時「里人が径〔みち〕の両側に土下座し、人力車でお通りになる管長閣下に賽銭をなげ、拍手〔かしわで〕を打って拝んでいる姿に接した」としつつ「大殿(尊福)の御巡教の時にも、このような情景が数限りなくあったと先輩から聞き及んでいる」(『幽顕』七七一号)と回顧している。

 明治二三(一八九〇)年、第八一代国造尊紀に謁見したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「杵築――日本最古の神社」で「ひと昔前まで、国造の宗教的権威は、この神々の国一円に広がっていた。……遠方の田舎にいる素朴な信者からすれば、今でも神様、もしくはそれに準じる存在であり、神代の時代から受け継がれてきた国造という呼び方が変わりなく使われている」と記す。そして「日本以外であれば、チベットのダライ・ラマを除いて、これほど崇拝され、民衆の信望を一身に集めてきた人は、ほかに見当たらない」と評した。

 明治一九年一二月一日付『郵便報知新聞』は、出雲大社宮司の千家氏ほど「その家系の正しき名族はあらざるべし」として、出雲国造家が天皇と並ぶ名家であるばかりか、天皇家以上に男系の系統を維持していることへの驚愕を表している。だがその宗教的権威は、単に家柄によるものではない。石原廣吉大社教大輔教(一八九〇~一九六九年)は「尊福様が東京へ出られるまで、国造様は毎朝お火所で潔斎をして常に神火によって食事をなさる。また一生土を踏むことを許されない。……こういった一般人とは異なる厳重な御生活の神性さから、生神様として拝まれたのだ」(『幽顕』五二一号)と語っている。

†霊威を受け継ぐ火継神事『日本書紀』敏達〔びだつ〕天皇十年閏二月の条に「盟に違〔たが〕わば天地諸神及び天皇〔すめらみこと〕の霊〔みたま〕、臣が種(族)を絶滅〔たや〕さむ」というくだりがある。古代王権を樹立した天皇には、これほど強い威霊が付着しており、それを代々継承してきたのが生き神としての天皇だと、宮田登著『生き神信仰』はいう。霊魂の付着現象は一般人にもあるが、万世一系の王権を維持してきた天皇霊は、個々人が付着させる霊魂の中で、とりわけ強力である。それを入れ得る唯一の存在が今上天皇であり、霊威を受け継ぐため行われるのが大嘗祭だとする。大嘗祭で身につけた天皇霊は毎年冬になると衰弱する。それを神人共食の神事で蘇生・復活させるのが新嘗〔にいなめ〕祭という意義付けになる。

 出雲国造も古来、祖霊を継承する火継〔ひつぎ〕の神事や、毎年の新穀を神と共食する(古伝)新嘗〔じよう〕祭などを連綿と続けてきた。そこに「神の憑より坐まし」(神霊が取り付く人)を表す御杖代〔みつえしろ〕と呼ばれる所以がある。出雲大神の祭祀を専修する国造は、その身に大神が依りかかることから御杖代と呼ばれ、大神と神慮一体の生き神様と敬われているのだ(出雲大社教『出雲さん物語』)。神祭では榊〔さかき〕に玉などを着けて神聖な神籬〔ひもろぎ〕とし、神を招き迎える憑り代とするが、国造もまた出雲大神が憑りつく神籬としてある。そのため国造には、いつ大神に憑かれても支障がないよう、厳しい潔斎が求められてきた。村上重良著『日本宗教事典』は、御杖代が「神の意志が拠りとどまる人間」を示すことからも、出雲国造はかつて、出雲人の神を体現する生き神として国を治めていた王であり、その王権の霊統を受け継ぐ儀式が「火嗣〔ひつぎ〕の神事」だったのではないかという。火継の神事では、国造が没すると、その嗣子〔しし〕は忌に服することなく、古代から伝わる燧臼〔ひきりうす〕、燧杵〔ひきりぎね〕を携え、直ちに意宇の熊野大社に赴き、鑽さん火か殿で神火を鑽きり出し、その火で調理した斎食を食べることで新しい国造となる。火はタマシヒの霊〔ひ〕、神火は祖霊の霊魂の象徴であり、国造は火(霊)継式で祖霊を身にうけ、その霊魂を継承することで、祖霊と同一の霊能を得るのだ。国造自ら鑽り出した火は在世中、国造館のお火所で灯し続け、国造は終生その神火で作った斎食のみとる定めも、近代に至るまで続いた。  それを裏付ける記述が、林鵞峰〔はやしがほう〕(一六一八~八〇年)が上野忍岡〔しのぶがおか〕の編纂所で綴った日記『国史館日録』の中にある。林は幕府の命を受け、寛文一〇(一六七〇)年に国史『本朝通鑑』全三一〇巻をまとめた儒者だ。同日記の寛文七年六月一二日の条は、幕府への国造の使者、北島国造方の上官、佐草自清〔さくさよりきよ〕を迎えた際の「出雲大社の神人来たりて談ず」というくだりで、出雲国造の代替わりをこう綴る。「国造は天穂日〔あめのほひ〕命より以来、血脈相承うけ絶ゆること無し。系図分明〔ぶんめい〕なり。両国造の下に社家十六人あり。共に是れ出雲氏なり。その嫡〔ちやく〕国造となる。国造古〔いにしえ〕は唯だ一流なり、二百年来、千家・北島の二流となる。毎世の国造疾やみて則ち未だ死せざる時、家督〔かとく〕出でて別社にあり、神火を鑽る。而して父死す、子代わりて国造となる。その族、前の国造を哭〔こく〕せず。唯だ新国造を賀するのみ。子父の葬〔そう〕に会せず、一日の潔斎も無し。自ずと日を相ひ続く。魚を喫すること常の如し。蓋けだし六十余代の国造は天穂日命に擬し、永く存して死せざるを以てするなり」と。

 千家尊福も明治三七(一九〇四)年「出雲国造葬祭に関する取調書」で「国造には古来服忌〔ぶつき〕なし、是れ神事を尊び其の職を重んずるが故なり」と述べている。出雲国造は永生にして不死だとみる、こうした継承の仕方は、儒教や仏教伝来以前の霊魂観・生命観を表すものだと、千家尊統は著書『出雲大社』で述べている。その昔、国造は永生だから墓はないとして、死去した前国造の遺体を赤い牛にのせ、杵築大社の東南にある菱根の池で水葬にする慣わしもあったと言い伝える。

 斎食の禁忌などは近代以降に撤廃されたが、火継神事は連綿と現代に受け継がれている。二〇〇二年春に第八三代千家尊祀〔たかとし〕国造が薨去〔こうきよ〕した際も、後継の尊祐〔たかまさ〕氏が、古代から伝わる燧臼、燧杵を携えて直ちに意宇の熊野大社に赴き、鑽火殿で神火を鑽り出し、その火で調理した斎食を食べることで第八四代国造となった。

 今も毎年晩秋、出雲大社で行われる古伝新嘗祭で、国造は神火・神水で調理された新穀の御飯と醴酒〔ひとよざけ〕を天地四方の神々に供し、自らも食する。冬の訪れとともに減退する出雲国造の霊力を、神人共食の相嘗〔あいなめ〕によって蘇らせるための儀式だ。その後、国造は神歌に合わせて「百番の舞」を奉納する。国造が両手に持った榊の小枝を、円を描くように三度回して横の神職に渡し、また新しい榊を持って舞う。これを百回繰り返すのだ。この「百番の舞」は、五穀豊穣への感謝と共に、神人合一の姿を体現したものだともいわれる。

†出雲大神の依代

 宮田登著『生き神信仰』は、天皇霊を付着させた天皇が天津神〔あまつかみ〕の言葉を伝える時、天皇は神と一体になるという。神祭りの天皇は神の来臨を請う祭主だが、一般民衆には神を祭る祭主が神そのものに見えると。いっぽう千家尊統も『出雲大社』で「大国主神に奉祀する出雲国造は、祭儀の上では大国主神それ自身として振舞う」「出雲国造は、古伝新嘗祭では大国主神となり、大国主神が祭っていた神々の祭りをとり行う」と記す。神祭りで神と交わる祭主が「神の依代」となり、民衆から生き神として崇められる所以だ。

 安永五(一七七六)年頃の津村淙庵〔そうあん〕『譚海〔たんかい〕』は、「出雲の国造は其〔その〕国人尊敬する事神霊の如し。氷〔ひ〕の川上と云ふに別社ありて、神事に国造の館より出向ふ時、其際の道筋へ悉〔ことごと〕く藁〔わら〕を地に敷みちて、土民左右の地にふし、手に此この藁を握りて俯しをる。国造藁を踏んで行過る足を引ざる内に、みなみな藁をひき取り家に持帰り、神符〔しんぷ〕の如く収め置なり」と記している。

 千家尊福国造の時代にも、同じ光景が続いていた。島根県那賀郡今福村(現浜田市)出身の故櫻井勝之進・元皇学館大学理事長(二〇〇五年没)が、明治四二(一九〇九)年に生まれる前の話というから、明治後半頃だろうか。父が奉仕する久佐八幡宮の御年祭に尊福国造を迎えた時、駕〔が〕に乗って神社へ着いた国造が、拝殿に布かれた真新しい薦〔こも〕の上を通ると、拝殿を埋めた参詣人が争って薦の藁を抜き取り、跡形もなくなったという。式年祭の賑わいも、専ら国造様が拝めるためだったと、両親からくり返し聞いた櫻井氏は、出雲大神の御神威をその身一つに負い奉る国造がただ人のはずはなく、明治の頃でも石見の郷里の人々は尊福国造を生き神様と心得ていたのだと語っている(『幽顕』五四九号)。

 今も出雲大社の真菰〔まこも〕神事では、神職が敷いた真菰の上を、御幣〔ごへい〕を奉持した国造が歩くと、参列者たちが一斉に真菰を競ってもらい受ける。それを風呂に入れれば無病息災、田畑に埋めれば五穀豊穣のお蔭があると、言い伝えられてきた。

 明治三八年に出雲大社の小使を務め始めた故石原廣吉氏は、尊福国造を回顧する中で「殿様、姫君様、お姫様、御殿さんなどという言葉は今も使われていますが、国造家は十万石位の大名の格式があった」と語っている(『幽顕』五二一号)。ラフカディオ・ハーンも、国造の実権は、出雲の大名にも劣らぬものがあり、将軍も友好関係を築いた方が得策と考えるほど大きかったという(「杵築――日本最古の神社」)。古代に政治上の権力を奪われた出雲国造のそれは、宗教的権威に他ならない。

 明治一五年に出雲大社美作〔みまさか〕分院を開く美甘政和〔みかもまさとも〕(一八三五~一九一八年)の伝記『旭香〔きょくこう〕美甘政和翁』(一九二五年)には、明治七年八月、尊福国造が上京の途中で美作(岡山県)に立寄り、国中の神職を召して旅館で講演した時の情景が、こう綴られている。「千家国造は上段の間深く着席せられ、遥か下りて其入口に旧藩御年寄役にて、宮司となられし黒田氏着席せられ、列席神職一同は次の間に並び、此室より上段の間の境に見台あり」。そして「出雲の国造様と云えば、人にして神なりの時代で、その尊厳とても今代〔こんだい〕の想像も及ばぬものであった」という。近世における出雲国造の権威の余韻がうかがえる逸話だ。

†神霊が宿るモノへの信仰

 出雲大社の真菰神事と同様の情景が、明治天皇の巡幸でも見られた。明治一三(一八八〇)年六月、信州松本で巡幸を見た作家木下尚江は、行列が過ぎ去ると、両側から多くの男女が我先にと駆け出し、突き合い押し合い、着物を汚しながら、泥塗〔まみ〕れの砂利〔じゃり〕を争い始めたと回想している。「天子様がお通りになった砂利を持っていれば、家内安全五穀豊穣」だとの信仰が広くあったからだという(『懺悔』)。

 明治一四年秋の東北・北海道巡幸に随行した山口正定侍従長は、山形県酒田に行在〔あんざい〕所を新築し天皇を迎えた富豪の談話を、同年一二月一九日の日記に書いている。それによれば、天皇が去った後、越後や秋田、最上〔もがみ〕辺りからも続々と人が訪ね来て、行在所となった座敷をぜひ見たいというので、一〇日ほど縦覧を許したら、老若男女が湧き出るようにやってきて、玉座となった敷物を摩〔さす〕った手で我が身を摩り、これで一生無病だと喜び、女性は柱隠しを摩った手で我が身を摩り、これで安産になると有り難がったりしたという。

 天皇が滞在・宿泊した家では、天子が触れた用具などに神霊がこもると信じて神祭りを始めた例もある。当時の生き神信仰上の天子〔てんし〕は「神霊を付着した器」で、その天子を間近に見ることに霊験はあるが、天子が踏んだ砂利や触れた物に移った神霊を持ち帰り、祭ったり御守りにする方が重要だった。当の天皇が死んでも、部屋や砂利に移った神霊は消えないため神祭りは続く。神霊がもたらすご利益を求めるこの生き神信仰は、天皇のため命も捧げるという近代国家神道の現人神〔あらひとがみ〕観とは全く異質な、近世以来の民間信仰だった。

 そこでは生き神視された人が自ら筆をとった書に、強い神霊が宿るとみるのが理だ。希代の文人でもあった千家尊福は、人々の求めに応じ、各地で多くの書を残している。中でも無数の人々が接してきたのが、道後温泉の湯釜だろう。  明治二五(一八九二)年から道後温泉の養生湯で使われた湯釜には、本体を覆う蓋に尊福が詠み、揮毫〔きごう〕した和歌「無嘉志與理多延努奈我麗母佐良耳麻太和幾伊豆留湯廼志留志乎叙淤母布〔むかしよりたえぬながれもさらにまたわきいずるゆのしるしをぞおもふ〕」(昔より絶えぬ流れもさらにまた沸き出る湯の験しるしをぞ思ふ)が万葉仮名で刻まれ、前後に大国主と少彦名〔すくなひこな〕の神像が彫られている。明治二四年二月、道後湯之町議会で老朽化した温泉建物の全面改築が決まり、湯釜も取り換える話がでた時、町民の間で神罰が当たり、湯が出なくなるとの心配や反対が広がった。そこで使われてきた湯釜は、奈良時代中期の製造と言われ、最上部の宝珠に正応元(一二八八)年、一遍上人によるという「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれ、中層円柱部には享禄四(一五三一)年に彫られた薬師像があった。今は道後公園内に湯釜薬師として安置される、千年以上も湯を注ぎ続けてきたという湯釜は、庶民の信仰対象でもあった。

 そこで伊佐庭如ゆき矢や町長は、新たに造る湯釜に尊福の題字を願い出た。出雲国造の揮毫による和歌を湯釜の蓋に刻むことで、湯釜を鎮め、町民の不安を取り除こうとしたのだ。最上部の宝珠には「憫民夭折始製温泉之術」(伊豆国風土記逸文「温泉」の「玄むかし古……大己貴と少彦名……民の夭折を憫〔あはれ〕み、始めて禁薬〔くすり〕と湯泉〔ゆあみ〕の術〔みち〕を制さだむ」の一部)を刻み、中層円柱部には大国主と少彦名の神像とともに尊福が記した「道後温泉誌」(二八一頁)を彫りこんだ。こうして尊福の揮毫を刻んだ新しい湯釜が「湯釜薬師」に比肩する霊験をもつ湯釜として置かれ、客はこぞって養生湯に入ったという。この湯釜は一九七三年、道後温泉駅前広場「放生園」に移され、今も滾々と湯を流しだし、無料で憩える足湯として人々に親しまれている。