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千家尊福と出雲信仰 
試し読み②「祭神論争――伊勢派との対立」

 

▼P.129-140第6章 祭神論争――伊勢派との対立

 出雲大社教会を立ち上げ、教説の確立と発展をはかる尊福の前に、近代日本の宗教史を画する一大事件が発生する。尊福の名を列島各地に一段と響き渡らせた祭神論争だ。これは明治八(一八七五)年の神仏合同布教の停止に伴い、神道教導職が大教院に代わる機関として設けた神道事務局に祭るべき神をめぐって生じた(神学)論争である。新築する神殿に造化三神と天照大神の四神を祭ればよしとする同局に対し、尊福が大国主大神を加えるよう求め、伊勢神宮大宮司の田中頼庸〔よりつね〕(一八三六~九七年)が拒んだ。二人の対立が高まる中、尊福を支持する者が出雲派、頼庸側が伊勢派と呼ばれ、全国神道界を二分し、一三万人以上を巻き込む対立に発展。収束を図るべく介入した政府が「神道は宗教に非ず」という国家神道路線へ舵を切る契機ともなった。国家管理の下にある神社では出雲大神の神徳を布教するのは不可能と悟った尊福は、在野の一宗教家として立つ道を選ぶ。

†幽冥の大神――平田篤胤の神学を取り入れて 

 人は死に肉体が滅んでも、わが子らの行く末を見守りたいと願う。人はまた生前自分を愛してくれた(祖)父母らに、ずっと傍にいて見守ってほしいと願う。誰もが持っている、そんな素朴な思いが、神道の祖霊信仰の源であろう。

 近世出雲国学の礎を成した千家俊信〔としざね〕は、門人に向けた「梅之舎三箇条」で、人は再び生まれかわることなく、死後は霊魂を家に留め、永く子孫を守るという。本居宣長に古学を学んだ俊信だが、人はみな死後、暗く穢れた地下の黄泉国へ行くだけだという、師・宣長の説には従わなかった。出雲国造家ゆえの死生観だろう。師の説を全否定しない俊信は、生前悪事をなした者が罰を受け、家に留まれず行く所が黄泉国だとし、生存中の善行を諭した。俊信は三箇条で顕露〔あらは〕の事(現世の政)は皇孫が治めよとの神勅により、その任を譲った出雲大神が、八百万神を率いて治めるのが幽冥〔かくりよ〕だともいう。宣長も注目した『日本書紀』神代巻の(国譲り)一ある書〔ふみ〕に基づく説だ。そして幽かみ事ごととは「誰なすともなしに万事の成ること」で四季の巡り、風雨霜雪、歳の吉凶、人の生死や世の盛衰もみな、出雲大神の幽冥の定めによるとした。

 尊福は初期の著作『出雲大社御神徳略記』(明治五年一一月)で、大国主神が「国の治乱、吉凶や人の生死、禍福など誰がなすとも知らずに行われる……万事を治め」云々と、俊信の言説を受け継いでいる。その一方、幽冥主宰の大国主神が「人民の世に在る間(生存中)は更にも云はず、生れ来ぬ前も身退〔みまか〕りて後(死後)も」治めると、平田篤胤〔あつたね〕『玉襷〔たまだすき〕』の一文も使っている。篤胤(一七七六~一八四三年)は宣長の没後門人を称するが、人の魂は黄泉国へは行かず、この世に留まるとした。その目に見えない世界が、大国主神が治める神や霊魂の幽冥で、死後人の魂はそこに赴き、同神の下で縁者を見守りつつ鎮まるとした。俊信は現世の裁きに洩れた重罪は「幽事の罪にあふ」と戒めるが、篤胤は逆に現世で報われぬ善人の魂は、幽冥で善悪を判〔わか〕つ大国主神に賞され、永世を得るとの救済を説く。篤胤は古学から神学を作り出したのだ。

 尊福は早くから、その平田派の著作に接していた。幕末紀州にいた富永芳久に、同じ大社の社家、坪内昌成から、若君様(尊福)が篤胤門人の『霊の宿替〔やどかえ〕』を読まれ、さらに平田ものをご所望だとし、『天磐笛〔あまのいわぶえ〕記』他数冊の注文を依頼する書状が届いている。尊福は後に師の中村守手と交わした『千問中答』で、宣長の『古事記伝』には頷けない点があるが、篤胤の『霊〔たま〕の真柱〔みはしら〕』『古史伝』は納得できるとしている。『霊の真柱』の「日本が世界の大元であり、その万事万物は万国に優れ、天皇が万国の大君である」といった言説が尊王攘夷などの理論的根拠になったことから、戦後篤胤は国粋主義の源流と見なされがちだった。だが篤胤の思想の中心は、万物に宿る八百万〔やおよろず〕の神々や亡き人たちの魂を重視し、神々や祖霊を祭り続けることで、安らかな暮らしが送れる(天皇はその祭祀の中心にあって、民のために祈る存在)という点にあるとして、近年その評価を見直す動きも出ている(『明治維新の残響』が紹介する吉田麻子『平田篤胤』など)。

 明治五年、民衆教化の教導職の最高位・大教正となり、翌年出雲大社教会を立ち上げた尊福は、篤胤の神学を応用しつつ近代的な出雲信仰を形成していく。六年八月の同教会仮条例には「出雲大社は幽冥の大政府にて、世の治乱吉凶、人の生死禍福に関する所なれば、人民の生産より死後に至る迄、悉く大神の恩頼に洩る事なき」とある。「今日為す所の一善一悪、皆大神に知られざるなく、死後神列に入って無量の安楽を受け子孫を守護するを得るも亦、大神幽事」の内と説く一二年一一月の開諭文も、その昇華の過程だ。

 従来神道は死を穢れとして避けてきた。だが生を語るのみでは新時代の宗教たり得ない。死あるが故に、生の喜びもある。尊福は幽(死)の世界から顕(生)を説いた。千家尊統〔たかむね〕は『出雲大社』で、大社教は死の問題に解決を与え得た唯一の神社神道だと述べる。「幽冥の神の恵みしなかりせば霊のゆくへはやすくあらめや」と詠む尊福は、生と死二つながらの安心立命の道を説くことで、出雲神道を救済の宗教として確立しようとしたのだ。

 だが尊福が出雲信仰を近代的宗教に発展させるべく、教義と組織を高めた明治零年代後半、神道を仏教に代わる宗教・国教として確立する政府の方針は、逆に大きく減退していたのである。 †消えゆく神道宗教化路線  岩倉具視に「諸事、神武創業之始に原〔もとづ〕く」という王政復古を提案した玉松操〔みさお〕は大国隆正の門人であり、その同門に具視の祖父・具集〔ともあい〕(一七七八~一八五三)や福羽美静〔ふくばよしず〕がいた。井上毅が「王政復古の指導原理は大国隆正翁の説に基因する」という所以だ。維新政権樹立の根幹には隆正の思想があり、当初の神祇行政は隆正に連なる旧津和野藩養老館出身者たちで占められていた。その隆正は「神は人の本なり、これにより神祭を政事の本とす」(天都詔詞考)とし、今上天皇も神を祭り、神に誓い、その意志を具現することが執政の根本と考えていたという(松島弘『亀井茲監〔これみ〕』)。

 そのため明治初期の政府内で重用された復古神道の国学者たちは、祭祀者としての天皇の位置づけを最も重視していた。ところが、明治二年夏の版籍奉還から四年夏の廃藩置県にかけて政権の基盤が落ち着くと、天皇の務めは第一に神祇〔じんぎ〕・皇霊への祭祀だとし、また天皇の京都への帰還を求める復古神道、特にその本流・平田派の国学者たちは、政治家達にとって煩わしい存在と化していく。三年末、平田延胤〔のぶたね〕らが神祇官を罷免され、四年三月には「不審の筋之これ有り」として矢野玄道〔はるみち〕らが拘留、謹慎処分を受けた。延胤(一八二八~七二年)は篤胤の養子・銕胤〔かねたね〕の長男で、維新後、神祇権〔ごん〕の大祐〔たいじよう〕の要職に就いていた。篤胤没後門人の玄道は、王政復古にあたり国家構想をまとめた「献芹詹語〔けんきんせんご〕」を岩倉具視経由で新政府に提出するなどして名を馳せ、維新後、神祇官判事の要職に就いていた。いずれも明治維新に多大な貢献をした平田派国学者の重鎮である。

 幕府の排除を正当化し得た彼らの復古神道は、政権の奪取・樹立時には役立った。しかしその後、政権を安定的に運営し、基盤を固めていく上では、旧幕府勢力や仏教界も取り込んだ広範な国民統合を図っていく必要が出てくる。原理に拘る復古神道者は不要どころか、邪魔な存在にさえなっていったのだ。「天皇は世界の総帝たるに相応しい」といった大国隆正の言説も、諸外国との外交関係を築いていくべき新政府にとっては不都合だった。

 とはいえ倒幕・維新の大義名分となった復古神道の思想自体は、明治政府誕生の根幹(正当性)に関わるものであったから、対民衆的には保ち続ける必要がある。原理主義的な平田派学者が排除された後の神祇行政の主導権は、亀井茲監―福羽美静ラインの津和野派が一手に握った。大国隆正らの復古神道を尊重する一方、藩主・藩士として藩政を担ってきた現実主義的な彼らを推したのは、隣国長州の木戸孝允だ。その木戸は同郷の真宗僧侶、島地黙雷〔しまじもくらい〕らに賛同して神道一辺倒の神祇省を、神仏連合の教部省に変える下地を作って、四年末から岩倉使節団の副使として洋行する。その最中、留守政府の主導で五年に発足した教部省では、参議の西郷隆盛を後ろ盾とする薩摩派が津和野派を一掃し、実権を握った。こうした流れの中で、祭神論争で尊福と対峙する田中頼庸が台頭してくる。

 キリスト教の解禁を求める欧米諸国からの圧力も、明治政府の宗教政策を大きく軌道変更させた。岩倉使節団は欧米を歴訪中、各国から条約改正の条件として信教の自由(キリスト教の解禁)を求められた。その結果、政府は六年二月にキリシタン禁制の高札を撤去する。これに伴い、四年夏、神仏分離の集大成的に、幕府の寺請制度を廃して導入した氏子制度は宗門改(非キリスト教徒の証明)の意義を失う。さらに人別帳(住民登録)としての機能も、五年に始まる戸籍制度にはかなわず、六年五月に廃止した。こうしてキリスト教対策としての神道国教化路線は、為政者にとって現実味をなくしていったのである。

 八年春の大教院解散で神道と仏教が別々に教導を行うことになると、一元的な国民教化という路線も形骸化していく。教部省は同年一一月末、神道と仏教の管長に対し、信教の自由を保障する口達を出す。そうなると教部省自体の存在意義もなくなり、一〇年一月には伊藤博文らの主導で教部省が廃止され、神社・寺院に関する事務は内務省に新設した社寺局が引き継ぐことになる。こうした政府の路線変更の中で、平田派(の思想)が政策・方針面で切り捨てられる一方、民衆向け国民教化の教導では、平田派の学説に基づく教えが説かれ続けるという齟齬が生じていた。尊福はそのギャップに陥り、祭神論争の渦中に巻き込まれたともいえよう。

†神宮・大社の同格を唱えて

 ラフカディオ・ハーンは『日本――解明の試み』(洋書、一九〇四年)でこう記す。「神道崇拝のより高い形としては、国家的信仰とされる皇祖の祭祀が最も重要だが、それは最古のものではない。最も権威の高い信仰は二つある。伊勢の神宮に代表される天照大神と、杵築の大社に代表される出雲信仰である。出雲の神殿は、より古い時代の信仰の中心で、この神々の国を最初に治めた大国主神を祭っている」。ハーンが言うように、ヤマト勢力が伊勢に及んだ五世紀後半頃、在来の土地神(外宮〔げくう〕の豊受〔とようけ〕大神〔のおおかみ〕)に天照大神(内宮〔ないくう〕)を合せて祭ったとみられる神宮に比べ、大社の創建は遥かに古いとされる(『日本宗教事典』他)。

 そして古代におけるヤマト政権確立から近世に至るまで、天津神〔あまつかみ〕と国津神〔くにつかみ〕、それぞれの最高神を祀る伊勢と出雲は神道上の二大拠点と目されてきた。明治政府が神道による国民教化を企図した際、神宮(伊勢)と大社(出雲)で東西を二分し、神宮祭主近衛忠房を東部管長、大社の尊福を神道西部管長としたのも、その認識の延長であろう。

 だが一方で明治政府はその両者に上下関係をもたらす。前述した神社改革で明治四(一八七一)年五月、伊勢の皇大神宮(内宮)を別格として全国神社の頂点に置き、その他の神社を、天皇との距離によって官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社に格付けして序列化するピラミッド型の神社体系を創り、大社を伊勢神宮の下位に置いたのだ。翌五年一月に出雲大社大宮司、そして六月に全国教導職の大教正兼神道西部管長となった尊福は同年八月、大社は「天〔あめ〕の下造らしし大国主神を祀り、天下無双の大廈〔たいか〕・国中第一の霊神なれば、宜しく官社の上に列せらるべし」とし、皇大神宮と同格にするよう求めた。だが、国民教化・宗教政策を司る教部省はこれを拒む。

 教部省はもともと、神仏合同布教を唱えた真宗本願寺派の島地黙雷らの提案に賛同した、同じ長州出身の木戸孝允らの主導で設立されたものである。長州藩内の真宗本願寺派寺院に生れた島地黙雷は木戸孝允の信頼を得て明治三(一八七〇)年閏一〇月、民部省下で寺院寮の設置を実現し、廃仏毀釈の抑制を導いた。黙雷は四年七月の民部省廃止を受け、神仏儒を一元的に管轄する官庁の創設を木戸に提案、左院の副議長・江藤新平の賛同を得て教部省設置へと向かう。だが五年三月実際に教部省が開設される時点で、木戸は岩倉使節団の副使、黙雷も本願寺の海外教状視察団の一員として洋行中で不在だった。

 いっぽう日本国内の留守政府は、多数の政府要人を含む岩倉使節団の洋行中、大きな変革や新規の人事はしないとの約束を破り、かなりの変革を行い、多くの長州出身者を政権中枢から排除するなど人事も変更していた。その中で、教部省では西郷隆盛を後ろ盾にした薩摩派が主導権を握るに至る。尊福が神宮と大社の同格を唱えた同年八月時点では、同年五月の教部大輔・福羽美静の退任からすでに三カ月がたち、教部省の性格が大きく変わっていたのだ。近世出雲信仰は九州の北部では村々にまで浸透していたが、南部にはあまり及んでいない。周防〔すおう〕(岩国)の岩政〔いわまさ〕信比古〔さねひこ〕、津和野の大国隆正など千家俊信の門人がおり、大社との交流も多かった津和野・長州の出身者たちと違い、薩摩は出雲と疎遠で、出雲信仰や国造に対する認識もかなり違っていたと思われる。

 明治六年六月落成の大教院神殿では、造化三神を「開元造化の主神」と見なす薩摩派の意向を反映する形で、造化三神と天照大神の四神が祭られた。これに対し尊福は毅然として大国主大神合祀を求める。全国の神道関係者を統括する管長が東部=伊勢と西部=出雲で二分されたことに鑑みれば、伊勢の天照大神とともに出雲の大国主大神を祭るのが道理といえよう。出雲大神を祭らないのは、西部管長である尊福を軽んじることにもなる。だが薩摩派が掌握する教部省は、尊福の主張を再度退けた。

 教部省内の薩摩派は、廃仏毀釈を徹底し、真宗を禁圧した鹿児島藩出身者たちであり、黙雷―木戸ラインで創設された教部省の性格も大きく変えた。木戸と伊藤博文(岩倉使節団副使、長州出身)の計らいでインドの仏蹟を巡り、六年七月に帰国した黙雷は、教部省下で開院した大教院の実態を見て驚く。同院が置かれた東京の芝増上寺は、本堂の阿弥陀仏を撤去して造化三神と天照大神を祭り、しめ縄を張り、門前に鳥居を立て、幣帛〔へいはく〕を捧げ、祝詞を奏する有様で、黙雷は「宛然〔えんぜん〕たる一大滑稽の場」と批判した。

 そもそも真宗を禁圧した鹿児島藩出身者=薩摩派と黙雷らが相容れるはずはない。黙雷は洋行中、英国で岩倉使節団と合流し、欧州の政教分離の実態など見ながら、木戸やその傘下の伊藤博文らと宗教政策を論じ合っている。世界の実態を直に知り、視野を広めた彼らと、留守政府にいた教部省の薩摩派とのギャップは、さらに開いていた。黙雷は同年八月、教部省批判の意見書を教部省に提出するなど、大教院分離運動へと舵をきった。一〇月末には東西本願寺が主導し、真宗の大教院からの離脱を認めるよう教部省に上申。これに対し、仏教側が要望してできた大教院を自ら離脱することへの反対意見も出て、仏教諸派は、その賛否で紛糾する。しかし黙雷の分離建白書を受けた真宗四派(本願寺・東本願寺・専修寺・錦織〔きんしよく〕寺)が明治八(一八七五)年二月に大教院を脱退すると事態は決し、二カ月後の四月に大教院は解散、神仏合同布教も廃止に至った。

 この動きに対し神道関係者は、大教院に代わる神道教導職の新たな拠点として、東京の神宮司庁出張所内に神道事務局を設けた。同年末、同局が招集した神道会議で神殿の造営が議事となるにあたり、尊福は再び天照大神と同列に大国主大神を祀るべきだと唱える。そこに立ちはだかったのが田中頼庸ら、いわゆる伊勢派であった。