日本史上最も短期間に社会が激変したのは、1853年のペリー来航から明治14年の政変までの30年間だろう。この期間を貫くキーワードは「公論」だ。前半の15年間で、幕府は国内の公論を集約しきれず崩壊。続く明治新政府は「万機公論ニ決スベシ」と宣言したものの、専制政治で強引に近代化を推し進めたために国民的レベルで反発を招き、公論の機関(帝国議会)の開設を公約した。
本書は、この時期に起こった宗教界の未曾有の混乱と、当時の宗教者がいかに対応し新たな道を模索したのかを、特に神社界に焦点をあてて描き出す。具体的には千家尊福の生涯を丹念にたどることで、出雲派(大社派)と伊勢派(薩摩派)との間で繰り広げられた「祭神論争」、および教派神道・神道大社派(出雲大社教)の成立と尊福の取り組みを明らかにした。
「祭神論争」とは、国として奉祀すべきは造化三神(ぞうかさんしん)・天照大神とする伊勢派に対し、尊福を中心とする出雲派が、幽冥(霊界)を主宰する大国主神を合わせ祀ってこそ国民の安心立命は図られると鋭く迫った神学論争。出雲派の主張は、悠久の歴史の中で培われた諸国の大国主神信仰や、国学の深化を基盤としたものであったから全国の大多数の神職から支持を得た。
政府は出雲派の主張を自由民権運動と同じく「公論」と受け止め、天皇の勅裁という非常手段で論争を終結させた上、神社は国家の祭祀機関であって「宗教ではない」ものと位置づけ独自の布教を禁じた。ここにおいて尊福は出雲大社宮司職と国造職を弟の千家尊紀(たかのり)に譲って神道大社派を、同じく国造北島脩孝(ながのり)も同権宮司職を辞して出雲教会(出雲教)を立教、ともに受け継いできた伝統を守り、人々の心に寄り添った布教に邁進することになった。
現在の「神道」は、この時代の神社界の辛苦からたどらなければ理解できないのである。