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中外日報(宗教と文化の専門新聞、1897年創刊) 2019年12月13日
明治宗教史に刻んだ足跡たどる/h2>

 出雲大社に代々奉仕し、「天皇に並ぶもう一人の生き神」といわれる出雲国造。第80代の千家尊福は、明治宗教史で最も重要な人物の一人でありながら、これまで伝記はなく、待望の一冊といえる。

 明治10年代の祭神論鍋は大国主(出雲大社祭神)を「幽冥神」と認めるか否かで神道界を二分した。尊福らの主張は大勢を占めたが政治的に抹殺され、政府が神社非宗教論を採る契機となった。尊福は神職を捨て神道家の道を選ぶが、手腕とカリスマ性に目を付けた伊藤博文の誘いで政界入り。大決断の背景には、政治の力に翻弄された経験から自ら教道の守護者になる使命感があったという。

 全国を巡教した明治の神道家は珍しくないが、具体的状況が分かるのは貴重。著者は関東・新潟・兵庫・四国を訪ね歩き、史料や揮毫を確認している。尊福の足跡は大社教の教団形成史であり、教会成立史でもある。

 1894年、県内対立が激しく難治の県といわれた埼玉県の官選知事になる。直後の集会で官吏幹部と懇談したことは世間を驚かせた。県会へも根気よく政策の意義を演説し、懸案を解決に導いた。また貴族院議員としては会派を率いて準政党内閣に協力した。巡教経験で民心を知り、卓越した指導力とバランス感覚を身に付けたと著者はみる。

 

週刊仏教タイムス 2872号 2020年10月22日

 明治以降の出雲大社(教派神道の出雲大社教)を隆盛させた千家尊福(1845~1918)は宗教者としてだけでなく、政治家あるいは和歌・書道に卓抜した文化人としても活躍した。その人物像全体を掴める伝記。

 明治政府の国家神道政策は必ずしも一枚岩ではなく、神道事務局の祭神に大国主を加えるか否かという「祭神論争」が発生した。造化三神と天照大神の四柱を祀るべきという「伊勢派」に対し、断固として大国主を加えるべきと主張した「出雲派」のリーダーだったのが千家である。この論争の背景には薩長の権力闘争も絡んでいたという。

 千家は当時、絶大な人気があり、雑誌「太陽」が実施した「宗教界の泰斗」人気投票で4万8千票近くを獲得、2位の大谷光瑞を大きく引き離した。近代日本社会と宗教の関わりを象徴する巨人の一人。