ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第8部・政財界の重鎮③大社教人脈が県政補佐―静岡の逸材多数率いる 山陰中央日報 2018年10月17日掲載

千家尊福国造伝 第8部《政財界の重鎮》③ (2018年10月17日掲載)
大社教人脈が県政補佐―静岡の逸材多数率いる

岡本雅享

 『大社教雑誌』明治23(1890)年12月号の「静岡分院開院式景況」に「静岡県下は我が大社教頗る盛んに行われ……県下教職八百余名、協賛員三百数十名、講社役員殆ど一千名」で傘下の甲子(きのえね)・産土(うぶすな)講社は各数千戸とある。この大社教の豊富な人脈が、尊福の静岡県政を補佐した。

 伊豆の国市小坂(おさか)に鎮座する小坂神社(祭神大国主命)の境内に、尊福の篆(てん)書を刻む「萩原正平頌徳(しょうとく)碑」が立つ。明治17(1884)年秋に大社教の教職となり、23年12月に大社教静岡分院(静岡市屋形町)を設立した大教正・萩原正平(1838~91)の顕彰碑だ。

尊福が静岡県議と県政を論じ合った県会議事堂(明治28年建設)を描いた絵葉書、左が県庁舎(静岡県立中央図書館所蔵)
尊福が静岡県議と県政を論じ合った県会議事堂(明治28年建設)を描いた絵葉書、左が県庁舎(静岡県立中央図書館所蔵)

 出雲大神が産土神の小坂(村)で生れた正平は17歳で本居大平の門人(竹村茂枝)に就き、名主となった23歳の年に平田篤胤の没後門人となった。明治に入り神祇官の宣教使や三島神社少宮司などを務める傍ら、菲山県の神社取調の任に当たり伊豆4郡7島を巡る。9年には静岡県に出仕し地誌国史の編纂を担い、14年2月から1年間は静岡県会議員も務めた。19年末の尊福静岡巡行では熱海から沼津まで同行。その尽力ぶりは尊福が特に褒賞を授けるほどだった。

 正平が24年6月に亡くなると、大社教は二代管長尊愛が哀悼詞を、副管長本居豊頴が諡(おくりな)を贈った。そして同年10月に尊福の篆額、豊頴の撰文、大社教権大教正・秋山光條(元出雲大社少宮司)の書による頌徳碑が建てられる。豊頴門下の歌人でもあった正平の子・正夫(大正6年2月、55歳で没)の胸に、この厚遇は深く刻まれただろう。

 その正夫は、学者でもあった父の遺志を継ぎ『贈訂豆州志稿』全13巻を完成させる一方、尊福が県知事となった30年4月、県会議員に当選。翌5月の臨時県会で清水港の貿易港指定をめぐる千家知事の諮問に「本県の製茶は全国屈指で……製糸も追々盛んになり、貿易港の必要を痛感する」と述べ満場一致を導くなど、県政面で尊福を支えた。尊福は31年、教育機関の整備・充実を図るべく42ケ町村組合立の浜松尋常中学校と田方郡立の韮山中学校を県立(経営)に移管した。20年代、韮山中学校の開設のため奔走した正夫が支持したのは問うまでもなかろう。

 1929年刊『静岡県政史話』は「千家知事県治」の筆頭に、30年秋の株式会社静岡農工銀行の設立を挙げる。政府交付金で同行株の3分の1(1万5千株)を引き受けた千家知事は、大株主として役員の選任や定款の改正を主導、翌31年から県予算の保管・出納を同行が担った。この時取締役の一人になった和田傳太郎(1847~1916)は11年県会議員に初当選し、17年に県会副議長となった政治家だ。同時に以前は国の教導職や静岡県神道事務支局副長を務めた神道家で、19年夏から大社教の協賛員でもあった。15年に沼津通信社(24年に沼津銀行と改称)頭取にも就いた傳太郎の実績を、尊福は見込んだのだ。

 農工銀行監査役の一人となった岡田良一郎(1839~1915)も、19年末の静岡巡行で尊福を訪ね、懇談してから大社教の協賛員になった。19年春に静岡県会議員に当選、23年の総選挙で衆議院議員となった良一郎は30年当時、二度目の衆議院議員をしていた。25年に掛川で日本初の信用組合を設立した良一郎の手腕を、尊福は信頼したのだ。

 岡田も和田も静岡が生んだ逸材だ。岡田の二人の息子はいずれも文部大臣になり、和田の子は初代沼津市長になっている。これら名士を率いた尊福の静岡県政が円滑に進んだのは当然ともいえよう。