ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第8部・政財界の重鎮④農事改良の最先端に精通―製茶・製糸業の発展促す 山陰中央日報 2018年10月19日掲載

千家尊福国造伝 第8部《政財界の重鎮》④ (2018年10月19日掲載)
農事改良の最先端に精通―製茶・製糸業の発展促す

岡本雅享

 出雲国風土記は意宇(おう)郡出雲神戸(かんべ)の条で「五百津(いおつ)鉏(すき)鉏(数多の鋤)猶(なお)取り取らして天の下造らしし大穴持(おおなもち)命」と、出雲大神の農耕による国作りを称えている。こうした農耕信仰との関連で、尊福は早くから農事改良に関心が高かった。

 明治21(1888)年に大社教相模分院を創立した草山貞胤(さだたね)(1823~1905)は、それが縁で尊福と出会ったという。大住郡平沢村(神奈川県秦野(はだの)市)の世襲宮司だった貞胤は「秦野煙草の祖」と呼ばれる篤農家でもあり、葉煙草栽培技術の向上・普及に取り組んだ。その功績で10年の第1回内国勧業博覧会開催委員に選ばれ、農事通信員として本州各地を巡り、技術指導にもあたる。14年の全国農談会で、農業技術の改良発展を図る全国組織「大日本農会」が発足すると、貞胤はその農談会会員となり、農商務省官吏や全国の篤農家、名士と交流した。ここで尊福の知遇を得た貞胤は、出雲大社教会の教えを受け、15年の大社教特立に伴い、教職に就く。尊福も貞胤の要請に応え、大住郡へ巡教に訪れたという。

報徳運動も推進した草山貞胤が創立した出雲大社相模分祠(神奈川県秦野市)。1975年に秦野の渋沢峠から現在地に遷座した。
報徳運動も推進した草山貞胤が創立した出雲大社相模分祠(神奈川県秦野市)。1975年に秦野の渋沢峠から現在地に遷座した。

 19年末の静岡巡行では、尊福らが志太郡小杉村(焼津市)に泊った夜、大社教教職で農事改良に熱心な丸田鉄三郎が、自ら考案した農事改良服を着て参上。収穫結果に基づく実践的な改良意見を述べ、尊福は大いに賞賛したという。この時尊福が静岡市で会った県議・岡田良一郎も「農事改良に専ら尽力中」の名士と形容されている(『大社教雑誌雑』9号)。

 それは良一郎が二宮尊徳(金次郎)四大門人の一人として著名だったからだ。相模出身の尊徳は没落した自家を再興後、小田原藩から任された藩領の立て直しに成功、その後も諸藩・諸村の復興に尽くし、幕臣となった農政家だ。道徳と経済活動を合わせ説く、その報徳思想が、財政難の藩や困窮した農村を立て直した報徳仕法と共に各地へ広がる。9年に遠江国報徳社の社長に就いた良一郎は、11年には農事改良と報徳の普及を図る掛川農学社も設立していた。

 いっぽう貞胤も、兼務する片岡神社(平塚市)の氏子で、良一郎の兄弟子にあたる尊徳四大門人の一人、福住正兄(まさえ)から報徳思想を学んでいた。教えと農事改良を結び付ける報徳運動は、尊福の大社教と親和性が高かったとみられる。

 24年に正兄や貞胤らが尊徳を祀る神社の創建に乗り出した際、賛同して元小田原藩主の大久保家から城内の一角を用地として譲り受けたのが尊福だったという(『幽顕』875号)。志半ばで没した正兄の遺言に従い、報徳二宮神社の初代宮司には貞胤が就いた。

 貞胤や良一郎らを介し、農事改良の最先端に精通し得た尊福は、埼玉県知事になると率先して農事改良費を計上。県・郡・町村単位の系統的農会の創設を打ち出し、農業巡回講話や製茶伝習所の新設を果たした。在任中の30年3月までに、県内1郡104町村で農会が誕生している。埼玉で特産品の蚕業・織物業の振興を図った尊福は、静岡でも製茶・製紙業の発展を促す。31年に静岡の小笠茶業組合が埼玉県から導入した高林式製茶機は、静岡製茶業の発展に大きく寄与した。

 「よく務めよくものつくる御民こそ真に国の宝なりけり」。静岡県各郡で開いた農事講習会の修業証書授与式に、知事として臨んだ尊福が詠んだ歌である。