ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第8部・政財界の重鎮②人々を引きつける大器―部下へも細やかな気配り 山陰中央日報 2018年10月12日掲載

千家尊福国造伝 第8部《政財界の重鎮》② (2018年10月12日掲載)
人々を引きつける大器―部下へも細やかな気配り

岡本雅享

 尊福が知事に就いた静岡は、既に大社教ゆかりの地だった。11年前の明治19(1886)年12月4日付け『静岡大務新聞』に「出雲大社……の宮司千家氏ほど其家系の正しき名族はあらざるべし」で始まる記事「日本第一の名家」が載っている。

 同年12月上旬、尊福が東京から出雲へ帰る途中、静岡県を通った際に書かれた記事だ。尊福一行が熱海、三島、沼津、静岡、浜松と移動し宿所・休憩所へ着くたび、大社教の教職や協賛員のほか、県・郡の官吏、県会の正副議長や議員、戸長、地元の名士などが謁見を求めて集り、その数500人を越えたという。

静岡県庁の知事室で執務の傍ら、末木に語りかける尊福(イメージ):絵=川崎日香浬
静岡県庁の知事室で執務の傍ら、末木に語りかける尊福(イメージ):絵=川崎日香浬

 尊福一行を訪ねた県の官員・議員たちのうち数名は、すでに大社教の協賛員だった。元県官員の大社教教職、田淵秀実が設立した懿徳救育会の信徒2万人余も、この時正式に大社教へ帰属している。この静岡巡行の様子を報じた『大社教雑誌』9号(20年1月)は、年々大社教に入る信徒が驚くほど増え、また尊福と交際する貴顕紳士が多いのも、尊福の「誠心誠意が人心を感動せしむる結果」と記している。

 その一端を窺わせる大社教豊橋分院長・末木千代吉(1876~60年)の若い頃の逸話「五銭のおさとし」が、1956年9月の『幽顕』524号に載っている。静岡県知事室で尊福の給仕をしていた末木は日給20銭が不満で、5銭の賃上げを西村家扶に頼む。だが1月しても音沙汰なく、3月経っても日給は上がらない。待ちかねた末木は意を決し尊福に直訴。すると尊福は「末木よく来た。五銭の事は聞いている。まあ我慢して勤めておれ。そのうち希望通りになるだろう」と言う。末木は平伏し「へい、へい」と答えるも、内心不満だった。

 その後も日給が上がらないので末木は給仕をやめ、静岡市内宝台寺の本堂を借りて珠算塾を始めることにした。山梨出身の末木は16歳で上京し、大社教東京分祠の神職養成所に入り勉学に励む傍ら、夜に著名な堀梅吉の珠算塾に通い、直伝を受けていたと『珠算事典』(1956年)にある。

 だが初めての開講で生徒は集らず、しばらく所在なく過ごしていた。それが急に日に10人、30人と溢れるほど集まり、月収も30円くらいになった。20才前後の若造としては大いばりできる額だ。得意になった末木は尊福の元へご機嫌伺いに参上。すると尊福は「末木、算盤塾は大はやりだそうで結構だ」とすべてご存知の様子。後で西村家扶に聞くと、寺へは尊福が無料で貸すよう頼み、商業学校や小学校、銀行、商店や会社へも尊福が末木の塾へ行くよう依頼状を出し、勧めていたのだった。

 一人の力で成し遂げたという思い上がりは消し飛び、5銭の賃上げが待ちきれず、お膝元を去った自分を、陰で見守り助けた尊福の心配りに心打たれたという。その後末木は掛川や浜松でも珠算塾を開き、著書も刊行、「東海珠算の開拓者」と呼ばれるほど大成する。そして豊橋での開講を最後に門人へ塾を託し、3千坪の敷地を買って41年7月に大社教豊橋分院を設立した。尊福晩年の全国巡講に随行するなど、半世紀にわたり大社教の布教に尽力したのである。

 大正3年刊『東海三州の人物』は、千家第6代知事は「茫漠(ぼうばく)として大慮ある態度」で「従容(しょうよう)として……何人をも包容する……棟梁の器」を想わしめたと表現している。