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越境する出雲学 
試し読み「序章 全国“出雲”再発見の旅③」

▼P.20-24

3.地名や神社で掘り起こす隠れた列島史

(1)海流に沿って伸びる出雲世界

 出雲という地名や出雲神社が列島各地にある。北陸の石川県や新潟県の沿岸部。 その新潟と接する長野県の北部や福島県の会津。山陰道でつながる近畿の京都・奈良。中国山地を越えて山陽に至る出雲街道沿いの広島県、 そこから瀬戸内海を渡った四国北部の愛媛県。瀬戸内から潮の流れでたどり着く紀伊半島の最南端(和歌山県)。出雲以西では山口県や福岡県など。 これらの地にはいずれも、古い時代に出雲から人が移住してきたという伝承がある。また、そこには必ずと言っていいほど、出雲神社や出雲神を祭る古い神社がある。 奈良県桜井市の出雲氏、石川県輪島市の出雲崎氏、広島県三原市の出雲氏など、今も出雲姓の人たちが住んでいる地もある。 そして多くの場合、弥生・古墳時代の山陰特有の土器や墳墓などが出土している。
 このように、列島各地に出雲地名や出雲神社があると言うと、やはりヤマト政権以前に、この列島を統治していた(梅原猛『葬られた王朝』が説くような) 古代「出雲王朝」的なものがあって、その名残が散在しているのでは?と思う人もいるだろう。しかし、本書で辿る移住や文化伝播のルートから見えてくるのは、 畿内を中心とし、そこから周囲へ勢力を拡大していったとされるヤマト世界に対し、出雲世界は海流の道に沿った一定の方向へ、顕著に伸びている、という像である。 一つの中核から発し、そこから同心円状に勢力=支配領域を拡大していくのが国家なら、出雲地名や出雲神社が、出雲を中核として同心円状に広がっていないのは、セオリーに合わない。
 それを端的に示しているのが、出雲と石見の関係だ。出雲(島根県東部)の西に隣接する石見(同県西部)には、出雲地名どころか、出雲系神社もほとんどない。 石見の美濃郡益田町(現島根県益田市)出身の作家・田畑修一郎(1903年生)は著書『出雲・石見』(1943年)で、こう記している。 「幼さいときから、出雲といふ所をごく近くに在りながら、一つの異国のやうに感じて育った。言葉がまるでちがひ、したがって人の気質もちがふのが、子供心に異様に思はれ」たと。
 その一方、東(北)方面、遥か離れた北陸に、出雲地名や出雲神社は多い。例えば、石川県では金沢市に出雲町と出雲神社(計5社)、羽咋郡志賀町に出雲と出雲神社、 輪島市に出雲崎氏と出雲神社がある。

金沢市出雲町と出雲神社
金沢市出雲町と出雲神社(右後方)

この3地点はいずれも加賀から能登半島にかけての沿岸部にあり、それらをつなぐと、海岸線と重なる1本の線となる。 いかにも対馬海流にのって、“出雲”が移動していったように見える。
 そして、その先にある新潟こそ、全都道府県の中で、出雲の本拠地がある島根県を上回り、出雲地名が最も多い県なのだ。 さらに、同県内の出雲地名の一つに妙高市小出雲があるが、そこから県境を越えた長野県飯山市にも小出雲という集落(旧村)がある。 別々の県だが、車で1時間ほどの距離。いずれの地にも、出雲からの移住伝承がある。両地にはつながりがあったとみるのが自然だろう。
 そして前述のルート上には、古来出雲で最もメジャーな大神と、その御子神を祭る神社が分布している。それが新潟から北信や会津を経由して、北関東へと続いているのだ。 その終着地といえる武蔵国には、出雲伊波比〔いわい〕神社などの出雲神社、出雲とのゆかりや出雲からの移住伝承がある氷川神社、 鷲宮神社、久伊豆神社など、古代に遡る神社が数多くある。また古代の山陰特有の土器が出土し、出雲系横穴墓とされる吉見百穴もある。

 

(2)一元的発想の盲点

 これらの現象は、長年、民族・移民研究に従事してきた私の目には、人の移動や文化伝播の形跡と映る。 米国サンフランシスコのジャパン・タウン(Japan Town)やロサンゼルスのリトル・トーキョー(Little Tokyo)のように、 移住者は往々にして自らのルーツを地名に刻む。またハワイの日系寺社や横浜中華街の関帝廟は、人と共に、神仏も移動することを示している。 希望と不安を抱えた新天地で、人々がすがり、頼ろうとするのは、まず故郷の神仏だからだ。そして人は、旅の途中でも必要な、使い慣れた道具を移住地に持ち込む。 山陰系の土器や木製品が、出雲から遠く離れた地で出土するのは、そのためではないか。ハワイの日系人墓地に和式の墓石が立ち並ぶのを見たとき、 私は北陸や会津で山陰特有のヒトデ型墳墓が見つかる謎が解けた気がした。 故郷を思い、日本に帰れないまでも、死後はせめて故郷と同じ型の墓で眠りたいという日系移民たちの思いが伝わってきたからだ。 遠隔地で見つかる、山陰特有の古代の墓が、出雲を原郷とする人たちのものなら、いろんなことが腑に落ちる。
 そして中央―周縁という一元的な発想から抜け出すと、今までまことしやかに説かれてきたことに、大きな盲点があるのではないかと思えてくる。 例えば、一つの標準語があり、その他は方言という言語の一元論でみてみよう。調査で会津の人たちと話した時、先方が気遣って「聞きづらいでしょう」というズーズー弁が、 私にはとてもなじみ深く、初めて訪れる地に思えなかった。そう言うと、映画やドラマにもなった松本清張『砂の器』を思い出す読者が多いだろう。 東京で起きた殺人事件の被害者がズーズー弁で話し「カメダ」の名を挙げていたとの証言から、 警察は秋田県の「羽後亀田」で捜査を進めるが、行き詰まる。被害者の出身地が、実は奥出雲(島根県仁多郡)の亀嵩〔かめだけ〕だったからだ。 東日本の東京では、ズーズー弁=東北と思いがちな盲点が、話の鍵を握る。
 「標準語」との乖離が大きい出雲や越後、東北の言葉が似ている理由として、大和で発達した新しい言葉が広がる中、 列島に古くからあった古語が出雲、越後、奥羽のような辺境・僻地に残ったのだという説がある。 大和が列島の中心で、文化はそこから陸路で同心円状に伝わったと考えれば、そうなるだろう。 しかしズーズー弁圏とされる沖縄、出雲や古志(越)は、陸地図で見ると何のつながりもない飛び地だが、 近代まで主要な交通手段であった海(流)の道では、見事につながっている。
 神迎え祭(旧暦10月)の頃、出雲の稲佐の浜に寄り来る神の使い・龍蛇様は、この季節、沖縄あたりから海流に乗って紛れ込んでくる南洋のセグロウミヘビだし、 その琉球諸島で作られたゴホウラ貝の腕輪が大社近くの猪目洞窟遺跡(縄文時代)で見つかっている。龍蛇様を出雲へ運ぶ対馬海流は、能登や越後へ向かう。 その越後と阿賀(野)川や只見川でつながる会津に、出雲地名(猪苗代町の出雲壇)とともに10社の出雲神社がある。

会津の出雲神社
会津の出雲神社(福島県喜多方市寺南)

そこで石川・富山県で見つかった山陰特有のヒトデ型墳墓が出土しているのも、必然とみるべきだろう。