ホーム > 著書 > 越境する出雲学 > 越境する出雲学試し読み②

越境する出雲学 
試し読み「序章 全国“出雲”再発見の旅②」

▼P.14-19

2.日本の成り立ちに関わる出雲の謎

(1)謎多き国?

 出雲は神話の国と呼ばれる。また、謎多き存在とも見られている。『古代出雲王国の謎』(武光誠)、『「出雲」抹殺の謎』(関裕二)、『出雲大社の謎』(瀧音能之)、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』(梅原猛)など、 本のタイトルだけ見ても謎、謎、謎のオンパレードだ。比較的最近の、その名もズバリ『出雲の謎大全』(瀧音能之)をめくると「古代の出雲の謎は、雲のように次から次へと湧き出てきて、その興味は尽きることがない」とある。
 今は島根県東部の一地方である出雲が、これほど全国的な脚光を浴びるのはなぜか。現地で生まれ育った私などには、長らくピンとこなかったが、改めて考えてみると、出雲が日本の国の成り立ちに深く関わっているからなのだろう。 日本は近代国家の形成にあたり、天皇制を採用。編年体の日本書紀(720年)に物語調の古事記(712年)の神話を織り交ぜた「記紀神話」を創作し、「国史」として広めることで、明治政府の正当性と国民意識の醸成を図ろうとした。 その古事記神話の4割余りが出雲に関するものだから、自ずと出雲が注目された。しかも出雲の大国主〔おおくにぬし〕神が少彦名〔すくなひこな〕命らと協力して(地上界の)国作りをした後、天照大御神を中心とする高天原(天上界)が 「国譲り」を求め、大国主がそれに応じて天孫が降臨、初代天皇・神武の東征・即位へとつながる。

出雲大社境内に座す大国主大神像
出雲大社境内に座す大国主大神像(出雲市大社町)

つまり天皇統治の起源、国の始原に関わる話だ。
 戦前の日本では先の「記紀神話」が、学校教育の「国史」や「修身」で教えられるなどして普及した。ところが、そこには懸念要素があった。古事記や日本書紀の神話を史実(の反映)とみれば、 日本にはかつて、出雲の大国主らが築き上げた国があり、そこに高天原(=大和)勢力が来て、出雲勢に取って代わったことになる。出雲勢を力で排除したとなれば、天皇統治の正当性が揺らぐので、 「記紀神話」では、大国主がアマテラスの神徳の前に、自ら進んで国を献上したという話に仕立てた。
 そのあたりが何とも疑わしい。だから戦後、言論の自由が保障されると「古代には大和と対峙する強大な出雲王国(王朝)があって、それが大和に滅ぼされたのだ」といった主旨の論説が出てくる。 その反作用として「神話の出雲は8世紀の朝廷が創作した(天皇神話の引き立て役としての)絵空事にすぎない」「神々の国出雲などどこにもなかった」という説も出てきた。
 例えば、歴史・民俗学者の鳥越憲三郎・大阪教育大学名誉教授は『出雲神話の成立』(1971年)で、出雲は「天皇の主権を高揚するために、神話の裏方として利用されたにすぎなかった」と序文で述べた上、本文でこう記している。
 「(出雲は)考古学的調査からみても……中央の大和の文化とは比較にもならないほど、小さな一地方的部族集団を形成していたものにすぎない。 現在でも県庁所在地である松江市の人口はわずか11万で、貧乏県として国庫補助を多く受けなければならない所である。……それなのに、出雲国の弱小国がどういう理由で神代巻の3分の1も占めるとともに、 それに基づいて起こった錯覚によって、千年もの長い間、大和朝廷に対立する強大な出雲国を我々に想像させてきたのだろうか」。
 そして高天原を「表」、根国・黄泉国を「裏」と想定し、山陽と九州が表方であるのに対し、「山陰道は(裏方に)もっとも適当」だと述べ、 さらに「山陰道の中で、石見・出雲・伯耆・因幡のいずれを裏方として用いても差し支えなかったが、その中で出雲国が選ばれたにすぎない」と結論づけている。。
 新幹線や高速道路といった大規模な開発が行われてこなかった出雲では、発掘調査の機会が少なく、必然的に考古学上の顕著な発見がなかった。 そのため戦後の、特に高度経済成長期に、こうした論説が、歴史学者や考古学者の間で広がった。それ故に、出雲神名火山(仏経山)近くの荒神谷遺跡で1984年、 それまで日本全国で出土した銅剣の総数を上回る358本の弥生銅剣群が一斉出土すると、専門家たちは混乱する。新聞記者の問合せに「何かの間違いではないか」と言い、 事実だと分かると「どうして出雲みたいな辺地に」と絶句した学者もいたという(高橋徹「二大発掘レポート」『歴史読本』1985年7月号)。 その後、こうした考古学的発見を追い風に、出雲にはやはり相当な勢力があったとする説が勢いづいた。
 すなわち出雲の謎とは、この国の成り立ちに対する疑問なのである。日本の歴史の主体とされてきた大和を考える時、気にせずにはいられない、 気になってしょうがない存在なのだ。だから出雲の謎を説く本では、出雲と大和がよく対で語られる。『出雲と大和―歴史の謎を解く』(村井康彦)、 『古代出雲と大和朝廷の謎』(倉橋日出夫)、『大和朝廷成立の謎―古代出雲王国から邪馬台国へ』(渡部雅史)、『大和政権に封印された出雲』(島崎晋)などの題名が、それを示している。

 

(2)地名で辿る移住・文化史

 古代の出雲には、大和と対峙するほどの強大な勢力があったというものから、古事記や日本書紀神話における出雲は絵空事で、 現実には何もなかったとする両極端まで諸説が乱立している現代、人々の理解が錯綜し、謎を深めるのも無理はない。その渦中からいったん離れ、 混乱の源は何かと改めて考えてみると、戦後も天皇制が続く中で、「記紀神話」的なストーリーが受け継がれ、人々がそればかり見てきたことが、 大きな要因ではないかと思えてくる。私たちは普段の日常生活で、何か事件(もめ事)が生じたら、双方の当事者に事情を聴いて、 事の真相を把握しようとするだろう。その一般的なことが、こと古代史と、出雲がらみの神話では、なされてこなかったのだ。
  第19回日本漫画家協会賞優秀賞(1990年)を受賞した、安彦良和さんの歴史長編作『ナムジ―大国主(古事記巻之一)』 (全4巻)を読んだことのある人も多かろう。安彦さんは同書の「あとがき」で「国譲り神事」を見て奇妙に感じ、 国つ神(天孫降臨前から、この国いた神々)への興味が湧いたのが、執筆の動機だったと述べている。だが『神武(古事記巻之二)』(全4巻) の冒頭に及ぶ長大なドラマの中で、結局「国譲り」の部分は、曖昧でよく分からない描写で終わっていた。 それはこの作品が「古事記を描いてみないか」という誘いに応じ、大和人が編んだ神話のみに基づいて書いたが故の帰結だったと思われる。
 自らが築き上げた国を、ある日突然「譲れ」と言われ、「はい、分かりました」と献上するストーリーには、多くの人がうさん臭さを感じる。 だがヤマト政権の貴族が編纂した古事記や日本書紀をいくら読み込んでも、国譲りをめぐる納得のいく実態は見えてこない。 大国主はなぜ国譲りの判断を、唐突に登場するコトシロヌシに委ねたのか。古事記の国譲り神話で高天原の使者に決闘を挑んだタケミナカタは、 なぜ日本書紀に全く登場しないのか。出雲の稲佐の浜を舞台に、出雲の大国主を相手に行われた国譲りの後、 なぜ天孫は出雲ではなく、日向(現宮崎県)の高千穂に降臨したのか。探究すればするほど、謎は深まるばかりだ。
 そこで、事のもう一方の当事者である出雲人が、出雲国内で自らの手で編纂した出雲国風土記(733年)の神話=出雲人による出雲神話を見てみよう。 その際、先ほどの日常生活で「当事者双方の言い分を聞く」場合と同じく、古事記・日本書紀の神話と、優劣や主従をつけず、対等・平等に見てみることが肝要だ。 すると、大和神話(古事記・日本書紀の神話)を、そのまま鵜呑みにはできない齟齬が出てくる。例えば、出雲国風土記神話で、 「天の下造らしし大神」と称えられる大国主神は、出雲の国を譲らないし、隠れもしない。より正確にいえば、出雲以外の統治を皇孫に委ねる一方、 出雲の国は今後も自らが治め続けると宣言しているのだ。そこにはヤマト政権への気兼ねが全く感じられない。 古事記や日本書紀の国譲りストーリーを知った上で、そう書いて支障がない(力)関係に、少なくとも当時(8世紀初め)の出雲はあったと考えざるを得ない。 ならば、天孫が出雲に降臨できなかったのは道理だ。出雲と大和の関係をめぐる謎は、次章や第7章の「出雲と大和」で詳しく論じたい。