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(1)地域を跨ぐ地域学
近代以降、中央集権国家の道を歩んできた日本で暮らす私たちは、国には一つの中心(中央)があって、 その他はすべて地方、中央から離れるほど辺境・周縁になる、といった観念に漬かりすぎてはいないか。 その中で、ふと気づくと、古来の多様な地域と地域のつながりが、いつの間にか断ち切られ、見えなくなってはいないか。
列島各地の市町村史などを読んでいると、朝廷や時の中央政権との関係の深さを説こうと努めるものが多いのに比べ、 近隣地域との交流や関係があまり語られていないことに気づく。当地に前方後円墳や、ヤマト政権から授けられたとみられる神獣鏡が出土していることなどから、 中央政権とのつながりを強調し、それをもって郷土の価値の高さを説こうという意識がうかがえる。 だが、中央を主とする歴史観と序列の中で、当該地域の地位をいかに高めようとしても、 地方は永遠に地方、中央の前ではサブ的な脇役でしかいられまい。
ところが、郷土と郷土の歴史を、時には国境をも越えて結びつけてみると、中央(国家)の視点で描かれてきた歴史とは違う多様性、 中央の下位的存在などではない地域の価値が浮かび上がる。出雲の創世神話「国引き」に大和は現れない一方、新羅が出てくる。 歴史学者の水野祐早稲田大学名誉教授は、遺跡や出雲伝説、出雲系神社の分布をあわせ見ると、百済から瀬戸内海をへて大和へ入った文化とは別に、 新羅から日本海をへて出雲に入った文化があり、それはさらに海路で能登から越へ伝播し、信州・北関東へ南下していくと説いた。
この説に依って、孤立しがちな各地の郷土史をつなぎ合わせていくと、新羅―出雲の流れの先にある地域では、能登と越後、越後と会津、北信・北関東とのつながりなど、 関連地域の郷土を越えた人の移動、文化の交流も見えてくる。この日本海沿岸を伝って、越後で内陸に折れ、 北関東へ至るルートは、畿内のヤマトを中核とする列島統治とは明らかに違う、人や文化伝播の流れだ。 出雲を原郷とする人たちの足跡を追う中で、単一の中心ではなく、出雲、筑紫、越など、いくつもの拠点が多元的に併存する列島の姿が浮かび上がってきたのである。
1990年代半ば以降、日本の各地で地域学が盛んになった。彩の国さいたま人づくり広域連合編『地域学の可能性』(2009年)には、 北海道の札幌学から本州の山形学、福井学、横浜学、岐阜学、 四国のえひめ地域学、九州の長崎学、鹿児島学や琉球弧の沖縄学まで、116もの地域学がリストアップされている。 そのほとんどは、現在の行政区画(県や市などの自治体)の枠内で、自治体や大学、NPOや住民が生涯学習の一環として行っている性格のものだ。
島根県出雲市でも、2005年にNPO法人・出雲学研究所が設立され、荒神谷博物館を拠点にし、「出雲学通信」(年1回)を発行するなど、様々な活動を行っている。 出雲の歴史的・文化的遺産を背景にして育まれてきた特徴を持つ文化を、地域の新しい魅力のひとつとして磨き上げ、地域活力の向上に結びつけていくのが、 設立趣旨だ(荒神谷博物館ウェブサイト「NPO法人出雲学研究所とは」)。これら地域学の意義を十分わきまえた上で、 私が本書で掲げる出雲学は、それらとは異なる、地域を跨ぐ出雲学である。出雲国=島根県東部を枠組みとするのではなく、 逆に本国(出雲)を離れた出雲人やその文化伝播を探る、いわば、日本版エスニック・スタディーズとしての出雲学だ。
(2)輝きを取り戻す女神
この越境する出雲学を進めていく中で、私には『出雲国風土記』に登場するミホススミという神が、その象徴・典型であるように思えてきた。 同風土記固有の創世神話「国引き」は、巨神オミズヌの神が、出雲大社の鎮座する杵築の岬(島根半島西部)を新羅(朝鮮半島東部)の岬から、 三穂の埼(美保関、同半島東部)を高志〔こし〕のツツの岬(能登半島の北端、珠洲〔すず〕岬)から引き寄せ、島根半島を造ったという壮大な神語りだ。 そして同風土記が美保郷の条で語るのが、 天の下造らしし大神(オオナムチ=大国主)が高志の国の女神ヌナカワヒメと結ばれて生まれた神、ミホススミ(御穂須々美)が鎮座する地だから美保という、という伝承だ。 出雲大神と高志の女神という、いわば「国際結婚」による、両国の縁を象徴する神である。
日本の近現代、太平洋ベルト地帯を主軸とする陸上主体の交通体系が作られる中、日本海沿岸域は「裏日本」などと呼ばれ、また岬は陸路の最果てと見なされるようになった。 だが日本列島の歴史を振り返れば、長きにわたり、人を結んできた交通の大動脈は海の道であり、陸路では僻地と映る岬こそが、他国と行き交う人々が辿り着き、 旅立つフロンティア(最前線)であった。その岬―出雲国の美保関と高志(越)国の珠洲岬に鎮座するミホススミは、 出雲と高志の海路による往来と交流が生み出した、海の女神である。おそらく本来の、その「国際」的な性格ゆえに、このミホススミを祭る神社は、 出雲を起点として能登から越後へ、そこから信濃=千曲川沿いに南下し、北関東(武蔵)にまで至っている。
逆にこの神の生命力が出雲―越前―能登-越中-越後-信濃―上野-武蔵にわたる「国際」的なつながりの中にあったが故に、列島の諸地域が(一つの)中央-(多数の)地方に一元化され、地域と地域が分断されると、輝きが弱まり、見えにくい存在になった。昨今ミホススミを産土神として祭る各地で、ミホススミがどんな神なのかが分からなくなり、「謎の神」と呼ばれたりしている所以であろう。
さらに『古事記』と『日本書紀』を合わせた記紀神話が唯一の、統合された「日本神話」と位置づけられた近代以降、出雲(国風土記)神話固有のミホススミの神には、光が当てられなくなった。 今の美保神社と須須神社の祭神は大和神で、ミホススミは本拠地でも、目立たちにくい存在となっている。 「不遇の神」などといわれる所以だ。これらは大和に一元化された日本史観、太平洋ベルト地帯を表、日本海沿岸域を裏とみる列島観と、深く結びついた社会現象といえる。
だからこそ逆に、地域を跨ぎ、地域と地域をつなぐ「越境する出雲学」を進めるうち、ミホススミが、だんだんと輝きを増し(取り戻し)ていったのである。出雲の大神と高志の女神の間にミホススミが生まれたという神話は、出雲と上越が能登を経由して結ばれていたことの証だ。美保関でも珠洲でも、この神は、地元の人々の間では、当地で最も古い産土神として、今も大事に祭られ続けている。 そして今や、『古事記』研究の大家である三浦佑之・千葉大学名誉教授も「日本海をつなぐ神……ミホススミこそが、古代の日本海文化の謎を解き明かす鍵を握る神」だと注目している(『古事記・再発見―神話に隠された神々の痕跡』)。
そんな中、私は有志と共に、出雲と越の、忘れられかけた縁を思い起こし、結び直す鍵となるミホススミに光を当てようと呼びかけ、「ミホススミに光を!プロジェクト」を立ち上げた。2021年度の1年間、ほぼ毎月1回、島根、石川、富山、新潟、長野、東京、福岡をオンライン(ズーム)でつないで、学習会と交流会を重ねた。 美保と須須=出雲と高志のつながりを象徴し、両者を海路でつなぐ女神―ミホススミは、私たちの祖先が大海原に向かって心を開く民であったことを、思い起こさせてくれるだろう。
以上の観点から、本書では、まず越境する出雲学の視点を紹介し、続いて、その観点で私が見つけた列島各地の出雲とそのつながりを説き、最後に「ミホススミに光を!プロジェクト」での実践を紹介しながら、「越境する出雲学」の意義を述べていこうと思う。