ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第6部・越へ筑紫へ④関門海峡越え福岡へ―人材発掘・登用を兼ねた巡教 山陰中央日報 2018年7月27日掲載

千家尊福国造伝 第6部《越へ筑紫へ》④ (2018年7月27日掲載)
関門海峡越え福岡へ―人材発掘・登用を兼ねた巡教

岡本雅享

 出雲大社本殿のすぐ隣(神座の前)には筑紫社がある。出雲大神と結ばれた宗像三女神のタギリヒメを祭る社だ。日本書紀の崇神天皇60年秋の条には出雲臣の遠祖、出雲振根が筑紫国へ赴く話もある。歴代出雲国造は、筑紫との縁を強く感じてきただろう。尊福は明治18(1885)年夏、その筑紫=福岡へ大社教を布教すべく旅立ち、巡教中詠んだ歌を『筑紫の道ゆきふり』に纏めた。

 7月19日、尊福らは船6艘で馬関(下関)まで迎えに来た門司の神職らと合流し、関門海峡を渡る。この時、尊福と出雲大神の御分霊が乗った船には斎竹(いみだけ)を立て、しめ縄を巡らせ、引船にして清浄を保ったという。門司に着き3日間布教、その後7月末までは今の北九州市域を巡る。22日関門海峡から洞海湾に入り、若松に着くと、市街の各戸は清砂を盛り、沿道で人々が左右に跪居(ききょ)して尊福を迎えた。ここで二昼夜説教、約500人が大社教に入った。

現在、春日神社社殿の前面に並んで掛かる「出雲国造尊福謹書」と書かれた3枚の扁額(北九州市八幡西区藤田)
現在、春日神社社殿の前面に並んで掛かる「出雲国造尊福謹書」と書かれた3枚の扁額(北九州市八幡西区藤田)

 さらに洞海湾内を進み黒崎に至った一行は27日、藤田の春日神社(現八幡西区)で開教。境内は人で溢れ、千人近い信者が大社教に入った。尊福は「藤田村の波多野熊宣(くまのり)(宮司)は祖父の頃より我家と親しい」として「月日こそ遠く隔つれ古(いにしえ)に変わらぬものは誠なりけり」と詠む。今も同社社殿に掛かる尊福揮毫の扁額「出雲大社」「大比叡神社」「須賀神社」は、布教に協力した熊宣の誠意に応えて贈ったものだろう。

 これら3枚は2003年まで境内にあった上(うえ)の宮の社殿に掛かっていたと、波多野雅夫宮司(65)はいう。大社名の扁額は大社教の関係と思いきや、慶応4(1868)年閏(うるう)4月の神社帳書上(波多野家文書)に、すでに「右殿出雲大社」とあった。戦前の八幡市神社明細帳には「出雲神社(の)鎮座年暦(は)詳ならねど宝鏡一面、延宝年間(1673~81年)以前に奉納ありと云ふ」とある。須賀・大比叡神社の祭神も出雲神だから、近世当地に出雲信仰が根付いていたのだ。その鎮座や尊福の祖父、第78代国造尊孫(1796~1873年)と熊宣(1824年生)の交流には、御師が介在していたのではないか。

 藤田を出た尊福らは遠賀川を河口近くで渡り、響灘沿岸域を開教しつつ宗像方面へ向かった。そこから玄界灘沿いを南下し香椎宮、箱崎宮に立寄り、8月末博多に至る。箱崎の浜で涼んだ夜、江藤正澄(1836~1911年)と再会した喜びを、尊福は「杯をとる手に月もさしそひて巡りあふ夜ぞ嬉しかりける」と詠った。正澄は後に出雲大社福岡分院を開く広瀬玄鋹が、終生兄事したという人物。秋月藩士時代に国学を学び、明治零年代前半は神祇官(省)の官員を、後半は丹波国出雲神社(出雲大神宮)などの神官を務めた。九大の江藤書翰集に5年1月、尊福が行う神葬祭をめぐり、当時神祇省権中録だった正澄に、玄鋹の父・綱張らが送った書状が残る。尊福が4年春、東京で開いた歌会に、二人は同席していた。尊福と正澄は、10年を超える旧知の仲だったのだ。

 正澄は11年、実父の死を機に帰国、官を辞し古書店を開く傍ら、福岡博物展覧会の開催や沖ノ島の神宝調査などで社会事業家、考古学者として名を馳せる。尊福は20年4月、その正澄を大社教の権中教正(4級)に任じた。後に昇級を重ねて33年、大教正となる正澄は、福岡における大社教の活動を終生支えた。尊福の巡教は、優れた人材発掘・登用の旅でもあったのだ。