ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第6部・越へ筑紫へ③近世御師の伝統受け継ぐ巡教―和歌を吟じ筆を振るう 山陰中央日報 2018年7月25日掲載

千家尊福国造伝 第6部《越へ筑紫へ》③ (2018年7月25日掲載)
近世御師の伝統受け継ぐ巡教―和歌を吟じ筆を振るう

岡本雅享

 明治17(1884)年8月の教導職廃止令に伴い、尊福は大社教に教導職の職制を取り入れ、翌9月に本居豊頴と、祭神論争で尊福を支持した石見国一宮・物部神社の世襲宮司家の金子有卿(ありのり)(1846~1923)を大社教の大教正(1級)に任じた。二人は翌18年5月に大社教副管長となり、東西日本を分担、尊福を補佐して布教に尽力する。

 
大社教管長随行の5人が連名で宮崎沢七へ出した明治18年元日付の礼状(出雲大社越後石沢講社蔵)。

 17年秋に始まる尊福の越後巡教には大社教教導職(職員)中、大講義(7級)2名、権中講義(10級)1名、権少講義(12級)1名、訓導(13級)1名が随行していた。上越市の出雲大社越後石沢講社には「大社教管長随行」として大講義の佐々木幸見ら5人が連名で出した18年元日付の礼状が残る。石沢には近世、大社の分社と出雲御師の宿所があったという。同講社は初代の宮崎沢七が13年、徒歩2ヶ月の大社参詣で分社を発願、御分霊と龍蛇神を授かって帰郷し、出雲神社を建てたのが始まりで、17年に大社教の認可を受けた。礼状には巡教時の並々ならぬ尽力と厚情に対する感謝が尊福に代わって記されている。尊福自身は還暦に達する沢七の身を案じてか、「静養」と揮毫した書を贈った。

 尊福の揮毫(足跡)は今も新潟県内の随所に残る。糸魚川市田伏の奴奈川神社の社殿には尊福揮毫の社名額が掛かり、柏崎市石地の御島石部神社の境内には、尊福が記した社記を刻む石碑が立つ。いずれも18年3月付なので、巡教後に贈ったのだろう。刈羽郡を巡る間、石部神社の山岸巌雄宮司は何かと尽力したようで、尊福は柏崎まで見送りに来た同宮司に、別れを惜しむ歌を詠んでいる。

 尊福が巡教する前には先発隊が派遣され、宿泊・講演場所を交渉し、祈祷の受付などの準備を整えた。宿泊所には当地の名士か富豪の家を当てることが多く、石地では翌18年県議となり、21年日本石油会社を創立する内藤久寛の家に、高田(上越市)では旧高田藩医師で明治4年に知命堂を開院した瀬尾玄弘の家に泊まっている。

 我が家に是非との要望も多く、先発隊が悩むこともあった。弥彦村では、11年秋の明治天皇北陸巡幸で行在所だった弥彦神社祠官の五十嵐盛厚邸に泊まる予定が、手違いで右大臣岩倉具視が泊まった鈴木嘉内宅に変わった。五十嵐夫妻はとても嘆き、立寄るだけでもと請う。尊福は断りがたく、同家を訪ねた経緯を歌集『越の道ゆきふり』で記している。

 同書は歌集なので、新発田の原富次郎(宏平、歌人で22年に初代新発田町長)宅で行われた歌会には紙幅を割いている。35名が集い、夜更けまで続いた歌会では、随行の竹下正衛や戸田忠幸も歌を披露している。和歌や俳句で現地の人々と交流、親睦を深める。請われて揮毫する。その教養で尊敬を得て、また縁を大事にし信頼を築く。これらは数世紀にわたり出雲御師が蓄積してきた布教の術で、尊福の巡教も、その伝統の線上にあった。

 御師らが各地で育んできた基盤の上で、生き神視された国造が親しく神徳を説く。尊福の巡教が熱烈に歓迎された所以だろう。この年39歳の尊福は、今の柏崎市一帯で二尺余り積もった雪道を黒姫山麓の黒瀧村へも巡教に行っている。その型破りな尊福のフットワークは、信者のみならず、大社教の教師たちをも鼓舞したに違いない。