ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 エピローグ・受け継ぐ人た⑤移民に寄り添ったハワイ分院―海外へ至った大国主信仰 山陰中央日報 2019年3月8日掲載

千家尊福国造伝 エピローグ《受け継ぐ人たち》⑤ (2019年3月8日掲載)
移民に寄り添ったハワイ分院―海外へ至った大国主信仰

岡本雅享

 

 尊福の著書『出雲大神』によれば、大正2(1913)年段階で大社教は教師職4187人で教徒433万6649人、出雲の本祠と東京分祠で全国を二分し、分院20、教会所170カ所という教勢に至っていた。この時すでに尊福が興した大社教は列島各地のみらず、国外へも伝播している。その中で今も健在なのが、明治39(1906)年開教の出雲大社ハワイ分院(Izumo Taishakyo Mission of Hawaii)だ。

出雲大社ハワイ分院(米国ハワイ州)
出雲大社ハワイ分院(米国ハワイ州)

  明治18年に始まったハワイ官約移民は広島県(40%)、山口県(36%)出身者で8割近くを占め、その他も福岡県など出雲信仰圏の西日本出身者が主だった。日本国内の大社教信徒数でも1位の島根(44万人)の次は山口(40万人)、3位が広島(32万人)だった(1932年当時)。尊福の後を継ぎ、大社教第二代管長となった千家尊愛の命を受け、布教のためハワイに渡った宮王勝良が、広島県比婆郡峯田村(現庄原市)出身だった理由が頷ける。

 明治7年、比婆郡で神職の家に生れた勝良は庄原英学校で英語を学んだ後、31年に出雲大社教の教師となり、39年3月ハワイへ渡った。到着後、病気になった妻の治療費を得るため数ヶ月間アイエア耕地で働いた勝良は、妻が回復した9月、ホノルルで大社教の教旗を掲げ、日系移民への布教を始める。当初はアアラ公園でランプを片手に説教する日々だったという。40年8月にダウンタウンで教会所と神殿を建設。尊福薨去の2か月後、大正7(1918)年3月、教会所はハワイ分院へと昇格した。

 官約移民後の私約移民、自由移民、さらには数万人の写真花嫁が渡布し、1920年時点でハワイ在住の日本人は11万人に増大していた。過酷なプランテーションでの労働、生活環境の中で、人々は故郷の信仰に救いを求めたことだろう。写真花嫁と夫の神前結婚も盛んにおこなわれ、縁結びで知られる出雲大社にハワイの日系人たちが集まる。

 尊愛の後を継ぎ、第三代大社教管長となった尊福の子、千家尊有はハワイ教会が分院に昇格して3か月後の大正7年6月に告諭文「在布哇並在米国の信徒に告ぐ」を発し、社会の進運に伴い、大社教が「国家教たると同時に世界教たるの実を挙げん」と欲すると述べている。明治25年に米国シカゴ開催の世界宗教者会議に招待され、官界に入ってからも各国要人と交わり、諸国の宗教事情に通じていた尊福のグローバルな視野を、受け継いだのだろう。

 「元年者」と呼ばれる1868年移民に始まるハワイの日系社会では、本国では近代化の中で失われた古い信仰や風習が残り、今でも憑きもの落としなどが行われている。大正12(1923)年5月、尊有が教勢視察と在留邦人の慰問のため、横浜から太洋丸に乗って来布した時、布哇日報は「生神さまの……来布」と報じ、4、50隻の漁船が港外まで出迎えた。1月以上滞在した尊有は現地で「布哇同胞諸君に望む」と題し、大国主大神の御心は世界的で、自然教から出発した神道は発達して倫理教となり、今日その教義は世界的なものとなりつつあるので、神道の真髄を邦人以外にも説き、ますます大社教の発展を図ってほしいと説いた。

 1935年の勝良帰幽に伴い、第二代分院長となる息子の重丸(1903年生)は文学士の学識を活かし、ホノルルのラジオ局から32年6月に「信仰と生活」、10月には「神無月と出雲をめぐる伝説、史実」と題して放送などしている。34年度のハワイ出雲大社での神前結婚式は258件。35年正月の教信徒初参りは1万3千人に及んだ。

 その存在感故に、1941年12月7日、真珠湾攻撃が起こった日、米国FBIはハワイで真っ先に重丸を拘束した。その後、日系社会の指導者や宗教者が次々に拘束される中、重丸の家族や分院の役員たちも、米大陸各地の抑留所にばらばらで収容された。米国政府は分院を解散、その財産をホノルル市郡政府に移管する。教団は完全に機能を停止した。

 井上順孝『海を渡った日本宗教』には、宗教者として社会的に尊敬されていた重丸が抑留中、米兵から受けた屈辱的な体験、悔しさが記されている。45年12月にハワイへ戻った重丸は、ホノルル市内のホテル倉庫を神殿に改造して布教を再開する一方、分院の不動産返還請願書をホノルル市議会に出した。長期の裁判闘争をへて最終的に財産訴訟に勝ったのは1961年である。長期間放置されていた神殿は損傷が激しく、1967年11月に現境内地を購入して神殿を移転修復し、翌68年12月に遷座祭を斎行した。

 1993年、90歳で帰幽した重丸は88年1月20日付のハワイ報知新聞で、生涯で一番嬉しかったのが財産返還の勝訴、2番目が米国本土の抑留所から家族と共に帰布したことだと述べている。戦後の再建にかけた苦労が窺える。それが実って分院は名誉を回復し、ハワイ社会で再び存在感を増していった。1971年2月にはハワイ州上院・下院が「神殿完成と永年間の社会貢献に対する祝賀決議」を採択し、重丸を表彰している。

 1990年6月に卦任した天野大也現分院長は、2000年代後半、テレビ東京のバラエティ番組でのお笑い芸人との軽妙な掛け合いが人気を呼ぶ。ハワイ出雲大社は日本でも有名になり、2011年に出雲大社教から若手の宮坂純布教師を加え、神官2人体制へ強化した。昨(2018年)春5年ぶりに分院を訪れると、観光バスの定期ルートになっていた。「今日のハワイ神社界で最も組織が安定し、積極的に活動を展開している」(前田孝史『ハワイの神社史』)と評価される所以だ。

 ハワイは米国本土と違い、神道と同じアニミズムが根底のポリネシア文化の社会で、地鎮祭やお祓いは現地文化とうまく融合している。オアフ島の著名な心霊スポットヌウアヌ・パリへ肝試しに行った青年が、真夜中、真っ青な顔をして出雲大社の戸をたたき、天野宮司にお祓いを頼んだという話も聞いた。

 

出雲大社勢溜に立つ千家尊福像。
出雲大社勢溜に立つ千家尊福像。

 翻って日本へ戻ると、ハワイ分院が財産訴訟という長い戦後を終えてから2年後の1963年5月、杵築では大社町が同町発展への多大な尽力を顕彰して尊福の像を建立した。大社教によってハワイへも伝播した出雲信仰。その基盤を築いた尊福は、今は出雲大社二ノ鳥居に近い勢溜(せいだまり)の東の丘で銅像となって故郷、杵築の町を見守っている。