ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 エピローグ・受け継ぐ人た④願開舟が結ぶ縁―四国で今も息づく大社信仰 山陰中央日報 2019年2月22日掲載

千家尊福国造伝 エピローグ《受け継ぐ人たち》④ (2019年2月22日掲載)
願開舟が結ぶ縁―四国で今も息づく大社信仰

岡本雅享

 

 美作の出雲街道が、人々を出雲信仰で結ぶ陸の道であれば、その神威が海の道を通じて現われたのが、土佐の願開舟とされる(『出雲さん物語』)。天明3(1783)年4月27日、稲佐の浜に漂着した長さ1尺3寸5分(41㎝)、幅3寸5分(11㎝)の丸木舟。寛永銭15枚を納めた蓋には「出雲大社様 土佐本山助藤(すけとう) 寅年男」と天明元(1781)年10月17日の日付が彫られていた。

出雲大社土佐分祠(高知県高知市升形)
出雲大社土佐分祠(高知県高知市升形)

 浦人が拾い上げ、千家国造家に持参すると、尊福の高祖父で第76代俊秀国造は、その厚い信仰に心打たれたという。土佐国を檀所(布教担当地域)とする大社の御師(神官)矢田八種にその由来を探らせると、蔓延した疫病が出雲大神への祈りで治まったことへの感謝として、助藤村の志和九郎左衛門が近くの吉野川に流したものと分かった。その小舟が、土佐の山中から18ヵ月もへて稲佐の浜に流れ着いた陰には、多くの人々の善意があったに違いないと言われる。

 出雲大社教会創設の翌明治7(1874)年1月、尊福は「霊験の開願船」という長文の由緒を書いた。天仁3年(1110)、稲佐の浜に漂着した100本の大木で本殿を造営した「寄木の造営」に比べて、願開舟は「広く人の知らぬ事」なので、記録と伝承をまとめ、その神威を「世に知らしめん」との思いが記されている。

 出雲大社土佐分祠の『教会明細書』には、この願開舟の漂着を八種が来国して知らしめた事で、人々の信仰心が喚起され、各家で出雲大神の神札を受け、拝むようになったのが発端とある。明治9年に大社の社家、平岡可美(うまし)が信徒たちの要請を受けて高知に留まり、14年に神霊を奉斎し、高知教会所が誕生した。

 可美は尊福が宮司・国造に襲職した明治5年、大社に奉職し、大社修繕の任に当たるなどして尊福を助けるいっぽう、大社教会の創設に尽力し、教職を率いて各地を巡教した。15年に大社教が特立すると、可美は伊予土佐両国の布教に専念し、松山で一等教会所を新築した後、土佐での教会設立を図った。その後、高知県内で豊永、伊勢川教会の創立も手掛けた可美は、初代所長を務めた高知教会所が分院に昇格した翌(25)年、高知で帰幽、永眠する。故郷の出雲に戻れなかったが、布教に尽くした生涯に悔いはなかったのだろう。最期にあたっては朗らかに辞世の歌を詠み、知己と酒を酌み交わして永訣を告げたと伝わる。尊福は葬祭に際し送った「故平岡翁を悼むの辞」で、その功績を称え「南海の訃音に接し、驚愕に堪えず」と悲しんだ。

 1953年分祠に昇格し、今年で開教143年を迎える土佐分祠は、県庁や市役所が立ち並ぶ市中心部を東西に路面電車が走る電車通りにあり、森田智瀧さんが第8代分祠長を務める。2008年、森田分祠長の発起で、出雲大社の遷宮に合わせた出雲願開舟記念碑遥拝所が、縁の地、長岡郡本山町助藤で竣工。森田分祠長は出雲願開舟講も起こし、毎月その記念碑の地で祭典も行っている。

 四国には今も出雲大社教の分祠が3(松山、土佐、高松)、分院が3(讃岐、今治、丹原)、教会が9、講社が1つある。江戸時代、阿波国を檀所にしていた大社の社家、西村勝男が明治13年に設立した徳島県三好郡の昼間教会など、創建はほぼ明治前半期に遡る。高知県安芸市井ノ口の安芸教会には大正6年11月末、高知巡講の折、尊福が3泊した部屋が、今も残っている。これらの教職・信徒が一同に会すべく、持ち回り式で2015年に始まった「四国えんむすび祭」。その第3回目は2017年に願開舟縁の地で開かれた。第5回は今春、讃岐分院で出雲大東神楽団を招いて開かれる予定だ。明治12年の尊福親祭を記念し、約20年ごとに行われていた出雲神代神楽の奉納が、1950年代を最後に途絶えていたのを、復活させるという。四国では今も、尊福や可美らの遺志を受け継ぐ人たちによって、出雲信仰が元気に息づいているのだ。