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民族の創出 あとがき
内なる多文化社会論構築へ向けて

出雲の古志土手、左下に神戸川が流れる、後方は北山
幼少期を過ごした出雲市古志町―神戸川土手の早春、後方に出雲北(不老)山が見える

 私は出雲の古志で生まれ、4歳で市街地の今市に移り住み、高校まで過ごした。農村だった稗原(ひえばら)生れの母(1939年生れ)は、子どもの頃はズーズー弁だったが、中学3年で今市へ移ってから標準語に「矯正」し、標準語しか話せなくなったと言うが、それは発音レベルの話で、大学進学以降、首都圏で10年以上暮らした私からみると、単語や言い回しにはかなり出雲言葉が入っている。そうした「標準語もどき」を母語として育ち、中学の先生からは「きれいな言葉」(=標準語)をしゃべると褒められた私も、大学進学で「上京」してから、出雲言葉(が市民権を得ていないが)故のくやしい思いをしたのは、一度や二度ではなかった。言葉の違い故に相手が歪んだ顔をするのを見たのは、中国留学での中国人ではなく、首都圏への移住での日本人が初めてだった。標準語が「きれいな言葉」なら、出雲言葉は「きたない」、少なくとも「きれいでない」言葉となる。私の自我の中に「出雲弁」丸出しの父や父方の祖母を、きれいな言葉をしゃべれない、恥ずかしい(存在)と感じる意識が、年少の頃から内心に染み広がっていた。本書はそうした自分自身のアイデンティティの捩れを矯正する作業でもあった。また、これから育つ出雲人、エミシ人やクマソ人たちが、故郷(郷土)を卑下することなく、健やかに自己のアイデンティティを形成できるよう願って書いた本でもある。民族的出自は、何よりも自己のアイデンティティ確立のために活かされるべきものだというのが、様々な民族の人々と接し、共に生きる中で、私が得た答えだからだ。

 そんな私が民族研究に従事し始めて四半世紀が経つ。学部生時代の1989年、協力スタッフとなったRAIK(在日韓国人問題研究所)で国連マイノリティ権利保障、欧米の移民・マイノリティ政策、在中・在ソ・在米コリアンに関する調査研究を担当した後、1991年秋から中国へ留学して民族教育の調査研究を行った。帰国後就職した国連人権NGO(1993~96年)では、マイノリティ権利保障の国際規準作りに参与する機会を得、その中でマイノリティを「少数民族」とする日本の国際条約公定訳に疑問を抱いた。米国では障害者や女性も意味するマイノリティが、日本ではなぜ民族と不可分に結び付けられているのか。それを考察した拙稿「少数民族―日本におけるマイノリティの概念」(『法学セミナー』536号)は本書の一つの源となる。横浜市立大学の修士時代(1995~96年)、ドイツ近現代史がご専門の木畑和子先生(現成城大学)の講義でホブズボウム『創られた伝統』や歴史学研究会編『国民国家を問う』を読んだことも、本書の基盤となった。当時発刊された小熊英二『単一民族神話の起源』(1995)には出雲民族の存在を教えられた。民族意識は往々にして、他者によって触発される。明治学院大学国際学部生だった1990年前後、後に(NGOで)上司ともなる武者小路公秀先生の集中講義を、うとうとと聞いていた時、「出雲が大和に征服され」という言葉が耳に入り、はっと目が覚めたのを思い出した。

UN Forum on Minority Issues, 3rd session, Geneve, December 2010
UN Forum on Minority Issues, 3rd session, Geneve, December 2010

 こうした伏線があったとはいえ、私がそのまま首都圏に住んでいたら本書は生まれなかったろう。2000年、福岡県立大学に採用され、初めて九州の地を踏んだ時、(今では見慣れて普通になったが)それまで約10年いた関東に比べ、南方系に見える人の割合が多くて驚いた。福岡や熊本出身の同僚たちが、自分は「大和民族ではない」「クマソだ」という(それまでの私から見れば斬新な)人間環境は、本書が自然な形で育まれる土台となった。首都圏では怪訝な顔をされる「~だけん」とか、通じなかった「こゆく」といった言葉が普通に使え、大学の守衛さんと、首都圏時代すっかり封印した出雲言葉を交えながら話せた時は嬉しかった。「方言」を口走っても怪訝な顔をされない環境は、標準語コンプレックスから私を解放してくれた。

 2005年秋、出雲へ帰郷した時、書店の郷土本コーナーで「出雲はなぜ抹殺されたのか」と表書きされた原武史『出雲という思想―近代日本の抹殺された神々』に出会う。そこには、復古神道の流れに属しながら、明治政府と伊勢に神学的に対立し抹殺された出雲――その視点に立つと、幕末から維新、さらには近代日本全体にわたる、もう一つの思想史が見えてくる、とあった。出雲大社から10㎞ほどの今市で育ちながら、同書に触れるまで出雲国造を全く知らなかった自分に衝撃を受ける一方、出雲の視点から大和中心の一元国家観や同質社会幻想を見直すという本書の構想が閃いた。

 中国で民族教育の調査をしていた時、北京在住のイ族の研究者が、イ族がイ族の歴史を知らないと嘆いていたが、なんのことはない、私も同じだったのだ。内田律雄『出雲国造の祭祀とその世界』は、出雲国風土記の世界が、現地を歩けば、まだそこに残っているという発見は、出雲に生まれ、出雲に育ちながら、その出雲のことをほとんど知らない自分自身の発見でもあったと書いているが、私もその思いを追体験していく。2006年から、帰省する度に、自分が生まれ育った出雲を、古い神社や海辺を中心に巡るようになった。私の曽祖父(旧姓坂浦)宗次郎は島根半島「坂浦」の出身で、親戚には「古浦」姓もある。いずれも本州北岸屈指のリアス式海岸、島根半島の浦々だ。琉球弧(沖縄本島、宮古・八重山諸島)や北部九州の宗像、志賀島(安曇)、越(福井、石川、富山、新潟県)も巡り、海を介した出雲との繋がりを実感していった。

 各地を巡る傍ら、それまで門外漢だった出雲に関する信仰、考古、神話、神道、古代から近現代史まで様々な分野の文献に目を通した。出雲の縁には時々驚かされるが、隠岐の島立て神話を教えてくれたのは、出雲大社とアイヌ大館の造りが似ていると指摘した、アイヌコタンの名士で旧友の父、(故)豊岡キイチ氏の(阿寒で頂いた)著書だった。

SF Cherry Blossom Festival, April 2008.JPG
San Francisco Cherry Blossom Festival, Japan Town, April 2008

 本書の趣旨を初めて文章化したのは2006年春の随筆「私の民族考」(月刊『イオ』)だが、各章の構成論文を書き始めたのは2008年度、サンフランシスコ州立大学(SFSU)民族学部(College of Ethnic Studies)の客員研究者として1年間、米国に滞在した時だった。渡米直後の4月、SF日本街(Japan Town)で行われる(日系アメリカ人と在米日本人共催の)桜祭り(Cherry Blossom Festival)を見ることができたが、そのパレードや催しを通じて、日本文化と見なされているものの多くが、前近代=近世の風俗や習慣でしかないことに改めて気づいた。日本の国民意識は古代をベースに形成されたのに、である。2009年2月、その日本街やSFSUでの講演を企画し、「日本人の隠された多様性(Hidden Diversity of the Japanese People)」のタイトルも授けて下さったのは、私をSFSUに招聘下さったオキナワン2世の研究者、ベン・コバシガワ教授だった。私の研究はネイションビルディングの脱構築(deconstruction)だと指摘してくれたのは、同大学のオキナワン3世の研究者、ウェスリー・ウエウンテン准教授だ。在米中、UC(カリフォルニア大学)バークレイ校のジョン・リー教授、デルマー・ブラウン名誉教授、ロナルド・タカキ元教授など日本学やエスニック・スタディーズ(民族学)の優れた研究者と交流できたことも幸いだった。その民族学を応用しながら、日本における民族意識の再構築(reconstruction)を図るという本書の主軸は、米国滞在中に定まった。米国内での講演の反応から、日本社会の多様性への関心は高く、また国外にも同質社会との幻想が広がっている日本は、ネイションビルディング研究の重要な検討事例になるという感触も得られた。アジア圏内で(台湾で民族承認に携る)林修澈(政治大学民族学部)教授らが私の研究にとても関心を持って下さったことにも励まされている。

左からA Different Mirror by Ronald Takaki (2008年のRevised Editionと日本語訳版)、Mutri-Ethnic Japan  by John Lie、With Prof.Ben Kobashigawa (left) & Wesley Ueunten (right)
左からA Different Mirror by Ronald Takaki (2008年のRevised Editionと日本語訳版)、Mutri-Ethnic Japan by John Lie、With Prof.Ben Kobashigawa (left) & Wesley Ueunten (right)

 高度経済成長の中で推し進められた画一化・中央集権化に抗って「地方の時代」が唱えられて久しいが、近代国家形成から現在に至るまで、主要メディアをはじめ列島の情報発信源は東京(と関西)に集中してきた。国外ではその偏りがいっそう強く表れる。日本国内では一定の知名度を持っている出雲も皆無に近く、有吉佐和子の小説『出雲阿国』は『Kabuki Dancer』と改題して出版されていた。日本の伝統文化といえば、京都や江戸(のみ)がイメージされ、歌舞伎の元祖が出雲阿国であることも、国技とされる相撲の元祖が出雲の野見スクネとされる伝承も、それが意味することも知られていない。出雲の視点が知日派の間でも斬新なのは、日本学が東京から発信された情報に偏って形成されてきたことの裏返しでもあろう。ラフカディオ・ハーンの『怪談』がKAIDANではなく、今も(ハーンにそれを語って聞かせた出雲人の妻、小泉節の発音どおりに)『KWAIDAN』(くゎいだん)の名で発行され続けていることは、世界が決して単一の日本を求めているわけではないことを暗示している。

 本書の構成論文を書き進めるまで、あまり気にとめていなかったが、マイノリティ権利保障研究・活動における私の師、佐藤信行氏(RAIK所長、立教大学兼任講師)と上村英明氏(市民外交センター代表、恵泉女学園大学教授)は、それぞれ東北(福島)と南九州(熊本)の出身だった。出雲人の末裔がエミシとクマソの末裔に手ほどきを受けてマイノリティ問題に関わる。私たちがマイノリティ問題に関わってきたのは、(無自覚ながらも)自分たちの出自と無縁でなかったのだと、今は思う。2009年春、帰国後初めて本書のテーマで依頼を受け講演したのが鹿児島国際大学だったのも、良縁だった。2010年秋に出席したアテルイ・モレの慰霊祭では、わらび座のメンバーが、エミシとクマソと出雲は共に「まつろわぬ者」と呼ばれた仲間だと挨拶していた。これら「まつろわぬ者」同士が連合して大和一元史観に対峙すれば、多元社会観を築き上げていく上での大きな力となろう。

アテルイ、モレの慰霊祭(2010年秋、京都清水寺).JPG
アテルイ、モレの慰霊祭(2010年秋、京都清水寺)

 本書を構成する諸論文の多くは、私が客員研究員を務める大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター(CAPP)の紀要・年報で発表してきたものだ。そのCAPP初代所長であり、岩波書店に対し本書の出版を推薦下さった武者小路公秀先生、また編集担当の閔永基さんと高橋弘課長など、様々な方のお力添えを得て本書は生まれた。田中宏先生(一橋大学博士課程時代の指導教官)の紹介で岩波書店と本書の企画の相談を始めたのが渡米前の2008年3月で、帰国後、担当者となった閔氏と最初の打ち合わせをしたのが2010年1月。ふり返れば、構想から8年半の歳月が流れた。その間、私の諸論文を読んで、出版のオファーを下さった2社に感謝とお詫びを申し上げたい。拙稿を読んで書簡やご著書を下さり、「島国観再考」を「今後、環日本海文化圏を考える上で欠かせない論考」(『現代思想39巻6号』)と紹介下さった三浦佑之立正大学教授など、多くの方々のご厚情やご声援にも励まされた。

 同質社会幻想を打ち崩すために、アイヌ民族や在日コリアンを矢面に立たせることはない。日本人内部の隠された多様性を解き放てばよい。この列島に住む人々は、もともと四方から海を渡ってきた多様なルーツをもつのだから、新たな移民の到来に戸惑うこともない。多元国家観に転換した将来の日本で、その転換点の一つとして、本書が顧みられる日がくれば、幸いである。