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私の民族考(上) 
日本のマジョリティは何民族か?

岡本雅享

 「族」「民」という漢字を生み出したのは中国であり、周代(紀元前)にはすでに使われていたが、この二文字を組み合わせた「民族」という漢字語は1880年代末頃の日本で創られたものである。それ以前東アジアには「民族」という概念はなかった。日本が列島に住んでいた様々なエスニック集団を基に、民族を形成する必要性に直面したのは、幕末に開国し、世界各国に民族国家として主権を認めてもらう段階に至ってであった。

 そこで創られたのが「日本民族」であり、復古神道を応用した「万世一系の天皇が治める神国」という国家神道が思想的支柱として新造された。明治維新前後の日本には様々な「生き神」が存在し、復古神道上、「現津神(あきつかみ)」となるのもアマテラス(天津((あまつ)神)の御杖代(みつえしろ)とされる天皇だけではなかった。オオクニヌシ(国津(くにつ)神)の御杖代とされる出雲国造(こくそう)の権威は、中国、四国地方を中心とする西日本一帯の広い地域で、天皇の権威に匹敵するものであったという。二人の「現津神」の存在は、神道事務局内の祭神論争に発展したが、王政復古で天皇を担ぎ上げた政府は伊勢派を擁護し、太政大臣が勅裁を発表するという形で、出雲派の主張を抹殺する。

 筆者は高校時代、拝み師の家を訪ねたことがある。その時、強烈に印象に残ったのは、拝み師の老婆の話す言葉が全く聞き取れず、通訳を介さねばならなかったことである。出雲で生まれ育った自分が、本来の出雲語を聞き取れないことに、強い衝撃を受けた。国民教育が行き渡る以前の日本列島に住む人々の口語は、通訳を介さねば意思疎通できないほど、違ったのではないか。

 ちなみに、戦前の「日本民族」は、「大和民族」「出雲民族」「蝦夷(えみし)」「アイヌ」「熊襲(くまそ)」「隼人」など、多様な民族からなる「混合民族」「複合民族」だと概念付けられていた。いっぽう敗戦によって国家神道が崩壊した戦後日本は、民族を曖昧にし、民族問題に正面から取り組もうとしてこなかった。戦後世代の頭の中には、民族という捉え方がインプットされていない。

 大学の講義で「自分は何民族かと聞かれて答えられる人」と学生に尋ねると、手が挙がらない。受講後の感想で学生たちは「自分がどの民族に属するかなど、考えたことも、意識したこともなかった」と書いていた。

 冷戦崩壊後、民族紛争が激化した世界の各地で、自分が何民族に属し、どの宗教を信仰し、どんな言語を話すかで、生命や人生が左右される事態が頻発している。民族を曖昧にしてきた日本社会に漬かってきた人々は、この国際社会の深刻な課題を理解し、対処し、また自身が「井の外」へ出たら、サバイバルできるのだろうか。2004年秋、イラクで殺された香田青年を思い、そんな不安を抱いた。

(月刊『イオ』No.118=2006年4月号掲載)