ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第5部・大社教特立へ②激変した神祇行政の中枢―神道宗教化路線は減退 山陰中央日報 2018年6月21日掲載

千家尊福国造伝 第5部《大社教特立へ》② (2018年6月21日掲載)
激変した神祇行政の中枢―神道宗教化路線は減退

岡本雅享

 

 アヘン戦争の清国大敗で儒教の権威が失墜し、黒船来航で武家統治への信頼が揺らいだ幕末、儒仏に影響される前の日本を理想化する復古神道が興隆した。そして天皇の神権的絶対性と、これを支える維新政権の正当性を確立し、藩主らを新政権へ統合・服従させる恰好の根拠となる。岩倉具視の幕賓(顧問)を務めた玉松操、矢野玄道らによる祭政一致や神武創業論は、王政復古や五箇条の御誓文を齎し、明治維新の根幹を成した。彼ら復古神道の国学者が明治初期の政府内で重用され、神祇行政の中枢を占めた所以だ。

 だが明治2年夏の版籍奉還から4年夏の廃藩置県にかけて、政権の基盤が落ち着くと、天皇の務めは第一に神祇・皇霊への祭祀だとし、また天皇の京都への帰還を求める復古神道、特にその本流・平田派の国学者たちは、政治家達にとって煩わしい存在と化していく。3年末、平田延胤(のぶたね)らが神祇官を罷免され、4年3月には「不審の筋之(これ)有り」として矢野玄道らが拘留、謹慎処分を受けた。

 
出雲大社の氏子札(明治4~6年、出雲大社所蔵)。表面には①所属神社、②生国と住所、③氏名と生年月日、④親の名が、裏面には①神官の氏名と印、②発給年月日が記された。5年に始まる戸籍制度で人別帳(住民登録)的機能も不要となり廃止に至った。

 平田派学者が排除された後、神祇行政を一手に掌握したのが亀井茲監(これみ)や福羽(ふくば)美静(びせい)ら津和野派だった。藩主・藩士として藩政を担っていた現実主義的な彼らを推したのは、隣国長州の木戸孝允だ。その木戸は同郷の真宗僧侶、島地黙雷らに賛同して神道一辺倒の神祇省を、神仏連合の教部省に変える下地を作って、4年末から岩倉使節団で洋行。だが留守政府の中で5年に発足した教部省では、参議の西郷隆盛を後ろ盾とする薩摩派が津和野派を一掃し、実権を握った。

 この頃中央政界に現れたのが、祭神論争で尊福と対峙する田中頼庸だ。4年に神祇省へ出仕した頼庸は、教部省で中級(15等中8等)官員の大録に昇進、教導職にも就く。「深く仏教の蠧害(とがい)を嫉」んでいたという頼庸は、鹿児島藩内で「排斥余力を遺さ」ぬ徹底した廃仏毀釈を行った(21年刊『鹿児島紀行』序文)。彼ら薩摩派は神仏合同布教を掲げた大教院を、神主仏従の組織へ変えていく。それが黙雷らの反発を買い、大教院は2年で崩壊した。

 6年9月に岩倉使節団が帰国すると、直後に起きた政変で西郷隆盛らが下野し、伊藤博文らが参議に就く。木戸は伊藤に教部省改革を委ねつつ、同じく同郷の教部大輔、宍戸璣(たまき)に教部省内の薩摩派を排除させた。ここで頼庸は教部省の一官員から神宮の大宮司へと、飛躍的な転身を果たす。

一方政府は、岩倉使節団が欧米各国から信教の自由を求められたため、6年2月にキリシタン禁制の高札を撤去。4年夏神仏分離の集大成的に、幕府の寺請制度を廃して導入した氏子制度も、肝心な宗門改(非キリスト教徒の証明)の意義を失い、6年5月に廃止した。8年春の大教院解散で別々に教導を行うことになった神道と仏教の管長に対し、教部省は同年11月末、信教の自由を保障する口達を出す。10年1月、伊藤らの主導で教部省も廃止され、神社・寺院に関する事務は内務省に新設した社寺局が引き継いだ。

 尊福が出雲信仰を近代的宗教に発展させるべく、教義と組織を高めた明治零年代後半、神道を仏教に代わる宗教・国教として確立する政府の方針は、逆に大きく減退していたのである。