ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第9部・大社教総裁へ④山県官僚派が逆襲―“兵糧攻め”で木曜会崩壊 山陰中央日報 2018年11月27日掲載

千家尊福国造伝 第9部《大社教総裁へ》④ (2018年11月127日掲載)
山県官僚派が逆襲―“兵糧攻め”で木曜会崩壊

岡本雅享

 尊福入閣から2ヵ月後、明治41(1908)年5月の第10回総選挙で政友会は過半数を獲得、西園寺公望内閣は順風満帆に見えた。ところが同年7月初め、首相は突然総辞職を公表する。原敬は6月下旬、その辞意を知る4日前に、西園寺の兄・徳大寺実則侍従長から、山県が現内閣の社会党取締りが不十分だと上奏し、天皇が不安を抱いたと告げられていた。西園寺は「四面より辞職を促がされたる如く見ゆ」と、同月29日の原の日記にある。

 
尊福を高く評価し、負債を承知で入閣させた原敬
(国立国会図書館蔵)。

 後継の桂太郎内閣は、尊福の後任に研究会幹部で反政党派の岡部長職をあて、主要大臣を山県派で固めて逆襲に出た。42年春の議会では、尊福らが38年に成立させた貴族院改正令を改定。38年令に従えば、41年末で男爵議員が64人で子爵の63人を上回る状況になっていた。44年の伯子男爵議員選挙でそれが現実となる前に子爵70人、男爵63人以内に固定する改定案を強引に通したのだ。

 この時、反対した木曜会の敗北を決定付けたのは、「国家に勲労又は学識ある者」から勅任された終身の勅撰議員たちだった。23年の第1回議会の61人から、38年で125人に増大した官僚主体の彼らは、伊藤博文内閣の政党への接近に反発する中で、茶話会と無所属派の二会派に結集。二派は幸倶楽部という合同体をつくり、貴族院内で研究会をも上回る勢力へと拡大していく。30年代長く政権を担った山県と桂は、彼らを掌握、10人足らずの伊藤派と大差をつけていた。

 子爵に有利な貴族院令改定で、研究会も桂内閣支持へ傾き、孤立した堀田正養は42年4月半ば、同会から除名され失脚した。いっぽう山県官僚派は、木曜会については会自体の壊滅を図る。すでに尊福入閣の翌月、幸倶楽部の主導下で、二七会に対抗する男爵議員選挙母体・協同会を作っていた。木曜会員に対しては、桂内閣の農商務大臣、大浦兼武(幸倶楽部)が警察官僚時代に民党員を苦しめた「兵糧攻め」と呼ばれる、借金取立てと収賄を組み合わせた策略で切り崩しにかかった。

 木曜会員には生活を議員歳費に依存する財力のない宮司や公家、大名分家などが多く、彼らの面倒を見つつ、大社教へも支援していた尊福は、多額の負債を蓄積していた。41年3月下旬、原に入閣を打診された時、尊福は自分の負債が原因で内閣が足をすくわれる危険性を憂慮し、二度にわたり就任を固辞した。西園寺と原が負債処理を助けると申し出、尊福がその厚情に応えて入閣した経緯を、原敬日記は記す。その弱点を、山県派は突いたのだ。

 山県派は尊福の借金問題を暴露して、その動きを封じつつ、動揺する会員の離反を促した。尊福の連帯保証人になっていた杉渓言長(すぎたにときなが)に目をつけ、返済を強く迫らせる一方、仲間を率いて木曜会を脱ければ、杉渓の負債は取り消し、多額の資金も渡すと持ちかける。

 杉渓は43年2月半ば、15人を伴って木曜会を離れ、清交会を新設した。これを機に41年末に53人を擁した木曜会の結束は崩れ、43年末で25人へ減少。選挙母体・二七会も協同会に競り負け、翌44年7月の第4回伯子男爵議員選挙で惨敗する。木曜会は10人となり、大正2(1913)年1月末に解散、尊福は純無所属となった。

 「千家尊福負債のため、到底政界に立つこと能はざるに到れる」と、原が日記で嘆く苦境に陥ったのだ。