ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第9部・大社教総裁へ②独自会派 貴族院で存在感―山県派牙城で内閣に協力 山陰中央日報 2018年11月9日掲載

千家尊福国造伝 第9部《大社教総裁へ》② (2018年11月9日掲載)
独自会派 貴族院で存在感―山県派牙城で内閣に協力

岡本雅享

 尊福は明治41(1908)年3月末に司法大臣となるが、それは貴族院議員としての活動による所が大きい。貴族院は皇族、華族と勅任議員からなるが、皇族と公・侯爵が全員終身に対し、伯・子・男爵は全有爵者の中から互選で一定数が選ばれ、7年任期だった。23年7月の第1回伯子男爵議員選挙で伯爵15、子爵70、男爵20人が選ばれる。この時尊福は男爵議員となり、30年に再選、37年に三選し、その間貴族院議員と知事を兼任していた。

尊福が設立以来、活躍した貴族院(明治33年頃、国立国会図書館デジタルコレクションより)
尊福が設立以来、活躍した貴族院
(明治33年頃、国立国会図書館デジタルコレクションより)

23年の第1回選挙で当選した議員有志は9月下旬、政務に関する研究会を開き、これを端緒として24年11月に院内会派・研究会が創立された。研究会は人数の多い子爵議員が中心で、幹部も子爵5人、伯爵2人、男爵1人の計8人。唯一の男爵幹部が尊福だった。この時尊福は研究会の5人の特務・交渉委員の1人にも就く。同年末、研究会が役員体制を改め、伯・子・男爵と勅撰議員から各1人を出す計4人の常置委員制にした際も、尊福が選ばれるなど、当初から頭角を現していた。決議拘束をもつ研究会は翌25年春の第3回特別議会から、貴族院の最大会派として威力を発揮し始める。

30年7月の第2回有爵議員選挙の後、尊福らは上位の子爵中心の研究会から脱し、男爵議員主体の独自会派・木曜会を発足させた。31年3月の創立メンバーには、大社教副管長だった金子有卿も名を連ねている。男爵議員の一半は神職・僧侶で、10数名でスタートした木曜会は尊福を中心によくまとまり、41年には53名に拡大、貴族院で無視し得ない会派に成長していた。

その成長を支えたのが、尊福ら木曜会が34年2月7日に設立した男爵議員の選挙母体、二七会だ。同年6月の男爵補欠選挙で、日清戦争の軍功で男爵となり、中央で知名度の高かった野田陸軍主計総監を、二七会が立てた小野尊光・日御碕神社宮司が破って当選、選挙母体としての力を世に示した。その二七会発展の中心にも、尊福がいた(『貴族院と華族』)。

いっぽう30年代を通じ、政権中枢では明治維新の元勲に代わる新世代の指導者が台頭し始めていた。31年10月、大隈内閣の崩壊を前に、憲政党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂する。板垣退助に代わり前者を率いた星亨(1850-1901)は、11月成立の山県有朋内閣と提携し、前3代の内閣が通せなかった地租増徴法案の修正採択を導く。

だが軍閥の祖と呼ばれる山県が33年5月、文官が陸海軍相に就けないよう官制を改定。これに反発した星らが憲政党員の入閣を求めると、政党嫌いの山県は即座に拒否して決裂する。対する星は伊藤博文の念願だった新党結成を助け、それに憲政党が加わるという離れ業を行い、33年9月に伊藤を総裁とする立憲政友会が誕生した。

 36年7月、山県軍閥直系の桂太郎首相は、政友会の力を削ごうと、伊藤を枢密院議長に任ずる勅書を得て、同会総裁を辞任させた。だが同会内では既に西園寺公望、原敬、松田正久への世代交代が進んでおり、伊藤に従い旧自由党の名士が多く脱けたことで、逆に西園寺・原・松田体制の結束が高まった。同会では伊藤の推薦で、西園寺が第二代総裁に就任。39年1月に、その西園寺を首相とし、内相の原、司法相の松田が脇を固める内閣が誕生する。

 山県派の牙城とされた貴族院にあって、この准政党内閣に会派を率いて協力したのが、尊福であった。