ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第7部・政への回帰⑤古代に始まる武蔵との縁―氷川神社では三神復活 山陰中央日報 2018年9月18日掲載

千家尊福国造伝 第7部《政への回帰》⑤ (2018年9月18日掲載)
古代に始まる武蔵との縁―氷川神社では三神復活

岡本雅享

 出雲国造と埼玉の間には、古代に遡る深い縁がある。大宮鎮座の武蔵国一宮・氷川神社は、出雲族の兄多毛比(えたもひ)命が武蔵国造となり、奉斎した社とされる。その社名は杵築大社の近くを流れる斐伊川(簸川)に由来すると、新編武蔵国風土記稿はいう。

 県内には古代当地に来住した出雲人が建てたとみられる式内出雲神社も2社あり、出雲大神や出雲国造の祖とされる天穂日(あめのほひ)命などを祭る。氷川神社は今も県内に204社あり、主に出雲大神を祭る久伊豆(ひさいず)神社(54社)や天穂日を祭る鷲宮(わしのみや)神社(60社)もあって、出雲系神社の存在感は大きい。

尊福が埼玉県知事時代、祭神を明治維新前の三神に戻し、度々奉幣使として参向した氷川神社(さいたま市大宮区)。
尊福が埼玉県知事時代、祭神を明治維新前の三神に戻し、度々奉幣使として参向した氷川神社(さいたま市大宮区)。

 そんな埼玉県民にとって尊福の知事就任は、古代武蔵国造の本家本元が千数百年の時を越えて現れたようにも映ったろう。明治33(1900)年刊行『維新後に於ける名士の逸談』には、その就任にあたり、神職たちは生き神様のご光来と喜び、庶民は小さな郷社や村社にも気を配り「樹木折るべからず」「鳥魚捕ふべからず」の制札を新たに建てたとある。尊福の治世を快く受け入れ、10年務めた東京府知事より多くの事績を語り継ぐ背景には、埼玉ならではの状況があったと思われる。

 尊福自身も早くから、埼玉との縁を結び重ねていた。式内出雲伊波比(いわい)神社を受け継ぐ出雲祝神社(入間市宮寺)の本殿には、尊福が7年秋に当社を訪れ、揮毫・奉納したという扁額が掛かる。尊福は14年春にも同社を訪れ「牟佐志(むさし)国造御社」の石碑を立てた。

 児玉郡肥土(神川町)の高橋家には、尊福が従五位の頃(明治5~13年春)に書いた祖霊祭用の軸が残る。同家では名主だった第8代の周兵衛(1834~1908)が明治に入り、天穂日命を祭る廣野大神社の神職になった。高橋家文書の中に、尊福が17年8月8日付で周兵衛に宛てた、大社教への附属を認める書状がある。同家が祭る出雲神社に尊福揮毫の扁額が掛かり、内殿中央の扉に大社教の教紋が浮き彫られている所以だ。

 近くの小茂田(美里町)でも17年、尊福の教えに共鳴した平田篤胤の没後門人、岡本一馬(北向神社宮司、1812~1899年)が大社教会を開設。翌18年の教会署名簿には247人が名を連ねた。児玉郡一帯は今も、関東で出雲大社の神札配布が突出して多い。

 尊福は知事時代、政務の傍ら氷川神社などの祈年祭や新嘗祭に度々、奉幣使として参向した。28年秋には同社宮司の請願に応え、明治維新で大己貴命と稲田姫命を外し、須佐之男命1神とされた祭神を三神に戻すよう内務省に申し出る。同省は翌29年春、これを承認。祭神論争の苦い経験をへて、(出雲)神道の守護者たらんと願って政界入りした尊福の思いが叶った一件といえよう。

 高橋家文書には、尊福が第9代周平(1858~1900年)に宛てた書簡も複数残る。周平は17年から県議を3期務めた。28年秋から30年春の3期目は、尊福の知事時代と重なる。県会には出雲信仰で結ばれた有力な支援者もいたのだ。

 尊福は30年4月、静岡県知事に転任したが、埼玉との縁を保ち続けた。33年7月に岡本一馬が没すると、その功労を称える歌を贈った。「百歳(ももとせ)に近くなるまで尽しきて遠く残しし功(いさお)多しも」の歌を刻む石碑が北向神社に立っている。