ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第10部・生涯にわたる巡教⑤突然の帰幽―別れを惜しむ人の波 山陰中央日報 2018年12月29日掲載

千家尊福国造伝 第10部《生涯にわたる巡教》⑤ (2018年12月29日掲載))
突然の帰幽―別れを惜しむ人の波

岡本雅享

 出雲大社周防分院に、晩年の尊福の書簡18通が残る。巡講に度々随行した初代分院長の大谷豊太郎に宛てたものだ。大正6(1917)年6月末の書簡には、石川県に先発後、体調を崩した大谷を気遣う言葉が綴られている。列島各地への巡講は、準備にあたる先発・随行員にとっても、身を削る仕事だったのだろう。尊福に随行し各地で巡回講演を行った大教正佐々木幸見は5年11月、志賀県巡講中に心臓麻痺で斃れた。だが尊福は怯むことなく、6年10月末の書簡では、翌7年4月半ばに尊有の大社教管長就任祝祭を行い、その前か後に石川県巡講を行う意向を伝えている。まだまだ巡講の旅を続けるつもりだったのだ。

 
国造館裏門(現表門)を出る尊福の柩(出雲大社提供)

 6年12月の高知県巡講中、風邪をひき体調を崩した尊福は、往復80里で路面が悪く、旅館もない南西部の高岡・幡多への巡講を断念・中止し、11日に帰京する。それでも高知巡講は23日間に及ぶ。7月半ばの志賀から石川、愛知、高知へと続く巡教は5か月で延べ85日。72歳の身体には相当の負担だったろう。だが周囲に弱音を漏らさず、9月半ばの書簡では、自分も「巡回講演の事は一番必要」と心得て「足腰の続く間は大に活動し、神徳拡張の精神」でいるので「老いたりという念之なく、道のためには益々若返り御活動」するようにと、18歳年下の大谷を励ます尊福であった。

帰京後10日ほど加養した尊福は7年の元日を、東京渋谷の自宅で元気に迎える。朝から吉例による年頭の儀式を挙げ、家族と楽しく語らいながら過ごした。午後になり少し風邪気味だと横になって休んだが、隣の部屋で歌がるたなどに興じる家族の声を、楽しそうに聞いていたという。薬も飲まず、夕食も普段より少し多い位にとったが、就寝する頃になって突如、心臓麻痺に陥った。驚く家族が右往左往する中、尊福は静かに口を開き「もうだめだ」と一言発し、眠るように息を引き取ったという。元日深夜、電報で尊福危篤を知った出雲の千家家では、妻の俊子と尊統が翌2日朝の一番列車で、尊愛らが同日の夜行列車で東京へ急行。翌3日、尊福の薨去が公表された。

 6日午後青山斎場で行われた告別式には、貴族院議長の徳川家達や内務大臣の後藤新平など政財界の要人を含む、千名を超える人々が参集した。翌7日尊福の柩を載せた汽車が、多くの人々に見送られながら東京駅を発つ。県知事を務めた静岡、巡講で訪れた愛知、大阪、京都では大社教関係者ほか官民が停車駅に押し寄せた。山陰線に入り福知山、和田山、城崎へと進むと、積雪で汽車がだんだん遅れる。寒風凛烈たる中、多数の教師や信徒が数里の道を厭わず停車駅に来て、その汽車の到着を数時間も待ったという。鳥取、米子、松江、今市と駅に詰めかける人々が益々増える中、8日午後尊福の柩は大社駅に着いた。同駅から千家邸に至る沿道には、万を超える人々が両側に立ち並んだという。

 11日、千家邸で葬祭が行われた後、尊福は歴代国造が眠る墓所へ向かう。その柩を担ぐ者40人、小林徳一郎寄贈の大墓標を掲げた一行は、千家邸から5町(約550m)の道のりを粛々と進む。『風調』84号はその情景を「蜒々たる行列は千家邸より墓所に至る間引きも切らず、先頭墓所に達するも後部未だ邸内に滞る」長さで「葬列の通過する道路の両側には……人山を築きたる」と伝えている。

 古代から連綿と続く国造家に生まれ、幕末から明治、大正に至る時代、近代国家に合わせて出雲信仰を大社教に発展させながら教育、政治、産業にも多大な貢献をした尊福。「天の下つくりし神のあと求め人は道こそゆくへかりけれ」と詠った教えを、自らの一生で示した、出雲が誇る希代の偉人であった。