ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第10部・生涯にわたる巡教③福岡巡講の縁で建った大鳥居―大筆を背に負って扁額揮毫 山陰中央日報 2018年12月21日掲載

千家尊福国造伝 第10部《生涯にわたる巡教》③ (2018年12月21日掲載)
福岡巡講の縁で建った大鳥居―大筆を背に負って扁額揮毫

岡本雅享

尊福は大正3(1914)年5月末、福岡県有志の招聘に応じて巡回講話を行うべく、北九州へ向かった。旧豊前・筑前・筑後の三国にわたる40か所での開講を終えて帰京したのは7月16日である。明治18(1885)年以来30年ぶりに福岡入りした尊福は、当時と違う非常な発展ぶりに驚いたという。

 
小林徳一郎の寄付で建てられた出雲大社の大華表の前で記念撮影する尊福ら(出雲大社提供)

この福岡巡講で尊福が最初に泊まったのが小倉の実業家、小林徳一郎(1870~1956)の家だった。島根県邑智郡高見村(現邑南町)生まれの小林は、15歳で故郷を離れて福岡県田川郡の炭鉱などで働いた後、小倉で土木業を起こして成功。鉄道施設や学校建設を多数手掛け、一代で巨額の財を築いた。八代干拓や新小倉駅建設でも名を馳せる一方、多くの社会貢献事業を行った篤志家としても知られる。

小林の回想録『聞書小林徳一郎翁伝』によれば、ある日、八坂神社の神主が訪ねてきて、講演会のため小倉に来る尊福の宿所を、島根出身の小林に頼みたいという。小林はそんな偉い方を自分の家にお泊めするのは失礼だと辞退したが、どうしてもと頼まれて引き受けた。真心こめて尊福を歓待した小林は、気さくで高ぶる所がなく、自分の成功を同郷人として心から喜ぶ尊福に触れ、親交を結ぶようになったという。尊福は馬関海峡が見渡せる小林家で「この家に宝を運ぶ家ならし波のよるさへ絶えず行きかふ」と詠み、小林は尊福の人格・識見に心酔したと伝わる。

その尊福が借金で窮地に陥り、連帯保証人の大木遠吉(後の原内閣司法大臣)までもが家財の差し押えにあう事態になったと聞いた小林は、直ちに上京して尊福の借金を引き受け、大木の差し押えも解除させた。小林は自分の家屋や土地を売って、これに充てたという。尊福が利権目当てで立ちまわれる人なら、自分が九州から出向かなくてもよかったろうが、そうでないから一肌ぬいだのだと、小林は述懐している。

大正3年に先祖の故地、出雲横田に帰った小林は、故郷への貢献事業を思い立ち、まず出雲大社に大鳥居を立てることにした。こうして大正4年、勢溜の鳥居をまっすぐに見通せる宇迦橋のたもとに立ったのが、今に至る大華表だ。当時日本で最大だった靖国神社の50尺(約15㍍)を遥かに超える、高さ75尺(約23㍍)の巨大な鳥居。その中央に掛かる広さ3坪(約10平方㍍)、重さ千貫(約3.75㌧)の扁額には、尊福が大筆を背に負って揮毫したという「出雲大社」の文字が刻まれている。

4年11月7日の落成式は県知事や衆貴・県会議員も参列し、盛大に行われた。参道に万国旗がはためく中、尊福に続いて県知事が大華表下の通行始めを行う。参道は2万人の人出で溢れ、尊福は竣工の慶びを「類ひなき神のみかけを仰見て立てし御門も世になかりけり」と詠んだ。大社駅から直線で作られた新たな参道の命名を有志らに頼まれていた尊福は、大華表落成の日に「神門(しんもん)通り」と名付ける。この時参道の両側に200本以上の松を植えたのも小林だ。こうして尊福と小林の縁によって、今に至る出雲大社の参詣道が完成したのである。

小林はその後、大社と日御碕を結ぶ人車道を作り、郷里横田の産土神、稲田神社も建て替えた。日御碕には今も小林徳一郎頌徳碑が立っている。