ホーム > 連載・寄稿 > 越佐と出雲―交流をたどって > 越佐と出雲7 新潟日報 2016年5月13日掲載 出雲文化の分岐点―越佐から内陸へ/信越国境を挟む二つの小出雲

越佐と出雲7 新潟日報 2016年5月13日掲載
出雲文化の分岐点―越佐から内陸へ/信越国境を挟む二つの小出雲

岡本雅享

 越佐は日本海沿岸を北上してきた出雲文化が、内陸に折れて信濃や会津へ向かう分岐点でもある。その一つ、居多神社が鎮座する直江津から関川水系を遡ると、信濃へ向かう川・道筋に出雲町―大己貴社―斐太(ひだ)神社―小出雲(おいずも)など、出雲地名と出雲大神を祭る古社が連なる。

文化7(1810)年「東都道中分間絵図」の高田城下町。左下に出雲町と伊勢町が並ぶ。上越市立高田図書館所蔵。筆者複写。
文化7(1810)年「東都道中分間絵図」の高田城下町。左下に出雲町と伊勢町が並ぶ。上越市立高田図書館所蔵。筆者複写。

 出雲町は慶長19(1614)年に築かれた高田城の城下町で、隣接して伊勢町があった。今も上越市南本町1丁目字出雲として地名が残る。正徳年間(1711~16年)の高田町各町記録には、出雲町の地名由来は不明とあるが、出雲や伊勢が地名となる場合、産土神に由来するのが一般的だ。南本町の1㎞東南には、寛政年間(1624~45年)に下箱井(しもはこい)村から分祀した下新田の大己貴社もある。

 近世、出雲町のある高田城下から北国街道を南へ進むと、石沢を経て荒井宿と町続きの小出雲(村)に至った。今の妙高市小出雲1、2、3丁目あたりだ。「景勝一代略記」の天正6(1578)年の記述から、小出雲の地名が中世にはあったことが知られる。途中の石沢(旧村)には江戸時代、杵築大社の分社があり、御師の宿所もあったという。

「東都道中分間絵図」の小出雲周辺。中央左に加茂明神、左上に小出雲坂、左下に飯山道への分かれ道が描かれている。同前
「東都道中分間絵図」の小出雲周辺。中央左に加茂明神、左上に小出雲坂、左下に飯山道への分かれ道が描かれている。同前

 その石沢では明治17年、大社教の認可を受けた出雲神社が創建されている。初代祭主の宮崎沢七は明治13年、徒歩で出雲大社まで参詣して分社を発願、御札と龍蛇神を授かって帰郷した。創立130年を経た同社は、6代目の雅彦さんが講長を継いだ昨(2015)年、社殿を大社造に全面改築し、出雲大社越後石沢講社と名を改め、新たなスタートをきった。

新潟県上越市南本町1丁目に立つ出雲町の標柱(左)と同市石沢の出雲大社越後石沢講社(右)
新潟県上越市南本町1丁目に立つ出雲町の標柱(左)と同市石沢の出雲大社越後石沢講社(右)

 石沢の西北約3㎞の朝日には、世襲で50代目となる大島美香さんが本務社として宮司を務める出雲系熊野神社がある。その南方、宮内には出雲大神(大国主)を祭る式内社、斐太神社が鎮座する。

                                                                戦国時代、上杉氏が128カ村の総社として崇めた斐太神社は、今も216の末社を擁する。小出雲の産土神、加茂神社も古来、斐太神社の末社だ。斐太神社の倉科信彦宮司は、小出雲は小京都と同じような地名で、加茂神社は出雲の賀茂、出雲から来て創建した社と、先代=父の文衛さん(明治31年生)から伝え聞いていた。

新潟県妙高市小出雲2丁目の停留所(左)と北国街道の小出雲坂(右)
新潟県妙高市小出雲2丁目の停留所(左)と北国街道の小出雲坂(右)

 小出雲は信州飯山道との分岐点でもあり、西条―山部―宮島―別所へ向かうと、信越国境の関田(大明神)峠に至る。そこから約8㎞先の旧温井(ぬくい)村(現飯山市一山(いちやま))にも小出雲がある。近世は温井村の枝村で、明治半ば頃まで地元では小出雲村と呼び続けたという。

 その小出雲在住の樋口一郎さんは、子どもの頃、祖父の又右衛門さん(明治7年生)らから、先祖は大昔、出雲の流れで住み着いたと伝え聞いていた。そこから飯山を経て善光寺方面へ向かうと、信濃国式内社の伊豆毛(いずも)神社(出雲宮)が鎮座する神代で、越後小出雲から関山を越え信濃入りした北国街道と交差する。

長野県飯山市一山の小出雲バス停(左)と長野市豊野町の式内社、伊豆毛神社(右)
長野県飯山市一山の小出雲バス停(左)と長野市豊野町の式内社、伊豆毛神社(右)

 太古に遡る越佐と出雲の交流で培われた絆は、今も健在だ。昨年11月には、上越市の日本画家、川崎日香浬さんの「神在月―高志から出雲へ」の出雲大社奉納に合わせ、上越・糸魚川市から40人が出雲を訪れ、祝賀会を開くなど交流した。これからも、新たな縁が重なりゆくことだろう。