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越佐と出雲6 新潟日報 2016年4月22日掲載
金山開発後の移民 旅館や廻船業興し発展

岡本雅享

 近世の佐渡島には、諸国から多くの移民が押し寄せた。越前・越中の出身者が多かったが、出雲や石見も少なくない。金山発見後、陣屋(奉行所)が置かれ、人口5万人規模の町となった相川。その江戸前期の町人名簿には、出雲藤右衛門や石見弥蔵といった名がある。

三層楼時代の出雲屋
昭和初期の絵はがきに写る三層楼時代の出雲屋。相川郷土博物館所蔵

 出身国名を屋号で表したのが出雲屋や浜田屋だ。宝暦3(1753)年、相川町の郷宿に指定された出雲屋は、文政9(1826)年の絵図「相川町墨引」では「旅人宿出雲屋庄右衛門」と出ている。1988年の廃業まで、ずっと奉行所(跡)から600mほどの相川町二町目にあった。

 昭和13年の『佐渡名鑑』は、当主竹田榮太郎は11代目で、堂々たる三層楼を築き、1年で2万人余の旅客を迎える相川町五大旅館の一つと紹介。その孫、伊藤佐世子さんは、先祖は出雲から来て苗字帯刀を許されたことなどを、祖母から聞いていた。

 出雲では旧暦10月の神在月、季節風で海が荒れた後、浜に寄りくる龍蛇(南海から北上してきた背黒海蛇)を、神の使いと見なした。杵築大社などに奉納された龍蛇は剥製・整形されて神宝となる。

 文政7(1824)年、加茂郡正明寺村の五郎作が、その龍蛇様を牛頭天王八王子宮(現牛尾神社)に奉納している。佐渡金銀山入用の鉄を買入れるため出雲国へ渡海した際、杵築大社に参詣して授かったものだ。牛尾神社は延暦11(792)年、杵築大社からの勧請・創建と伝わる古社。北ツ海(日本海)を介した佐渡と出雲の往来を示す、その龍蛇神と受証文は、佐渡市指定文化財になった。

 造船などの他、鑽(たがね)など採掘用の道具作りの需要も多かった佐渡で、古くから鉄を取引していたのが浜田屋だ。初代の川上権左衛門が石見国浜田から渡来したのは、16世紀末頃という。元禄期に沢根町名主となり、佐々井(笹井)姓に変わった浜田屋は、明治初期まで廻船業を続けた。

佐渡浜田屋本家治左衛門の大黒丸(307石積)
佐渡浜田屋の親船、大黒丸の船絵馬

 沢根漁港近くに、今も浜田屋の子孫、笹井家がある。浜田屋は酒田から下関までの北前船西廻り航路で幅広く交易したが、江戸後期の船荷取引をみると、出雲で鉄を仕入れる他、越後で仕入れた塩を出雲で、出雲で仕入れた綿を越佐で売ったりしていた。

 北前船が運んだのは、これら物資だけではない。幕末から明治の日本海沿岸で流行った出雲節は、出雲のさんこ節を、北前船の船乗りたちが港伝いに広めたものだ。その歌声には、上方や江戸とは異質な近世日本海文化が宿っているともいう。出雲崎船唄の「出雲で名高きお茶屋の娘」や、佐渡相川町に伝わる「酒を造らば出雲酒」といった歌詞は、そのルーツや北前船の交易を物語る。

新潟船方節を伝承する節美会の人たち.jpg
新潟船方節を練習する節美会のメンバー(2014年9月撮影)

 出雲節は、新潟県以東で船方節とも呼ばれた。民謡団体・節美(せつみ)会が伝承する新潟船方節は、初代会長が昭和の初め、新潟の花街で歌われていた出雲節に、地元民謡の要素などを加え完成させたものだ。出雲節(船方節)は沿岸部から農村にも伝わって新しい歌詞が作られ、祝宴の場や労働の傍らで歌われたという。こうした越佐の風土に馴染んだ再生産が、広い伝播を齎したのだろう。