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私の民族考(中) 
民族識別と中華民族論

岡本雅享

 以前、吉林市で朝鮮族の友人宅を訪ねた時、彼の弟が「僕らは外国では、中華民族というべきじゃないか」と言ったのを覚えている。中国では1990年前後から、中華民族という呼称が急速に使われ始めた。漢族と55少数民族の接触・融合により形成された中華民族(第一層)―56民族(第二層)―56民族の下位集団(第三層)の三層構造の民族概念である。

 中華人民共和国成立後初めて行なわれた全国人口調査(1953年)では、自己申告に基づいて登録された「民族名」が400以上にのぼっていた。中国政府はこれら集団を、民族識別によって分別、統合し、現在の55の少数民族を確定した。例えばイ族はノス、ロロ、ニ、アシなど百を超える異なる呼称の諸集団を統合したもので、当初は今のペー族、リス族、ナシ族もイ族の下位集団と見なすべきとの意見もあった。

 いっぽう、南盤江の両側に住む広西チワン族自治区のチワン族と貴州省のプイ族は自称プ・イという同じ集団だが、民族調査が省・自治区ごとに行われ、相互の照会が十分なされなかったため、別々の民族とされ、同じ言葉がチワン語北部方言とプイ語に分類されている。

 中国では「解放」前、自分たちが何民族か全く知らなかったと回顧する人も多い。だが1980年代初頭までの30年間は、民族意識が芽生え、定着するのに十分な期間でもあった。文革後、民族識別調査の再開や単独の民族としての承認、民族的出自の回復・変更を求める声が高まり、1979年にチノー族が55番目の少数民族として公認される。各地の政府が、計画出産政策の緩和など少数民族に有利な措置をとったこともあり、90年までに約2000万人が、民族的出自を漢族から少数民族に変更した。その過程で、少数民族の中で、漢語を話し、民族意識のない人々の比率が増えてゆく。78年以降、二つの民族自治州、62の自治県が新設されたが、「自治」地方設立へのステップとして、民族的出自の回復・変更を利用した地域もある。

 こうした中で政府が、民族識別と民族的出自の回復・変更の収束を図った80年代後半に浮上したのが、諸民族の接触、融合を通じて、歴史の発展的趨勢として形成されてきたという中華民族論である。今も百万人近い未識別民族がいるが、56番目の少数民族の承認はない。「中華民族の凝集力」は、ウイグルやチベットの分離主義的傾向への批判にも転用されている。

 中国内でも、民族へのこだわり、民族と個人の関係は一様ではない。その総体を見ずに在日コリアンと比較しても、中国内の朝鮮民族の置かれている立場を本当に理解することはできないだろう。朝鮮族学校でも、朝鮮の歴史は世界史の一部としてしか教えられないし、都市部での朝鮮語維持率は(延吉市を除けば)全国各主要都市に朝鮮学校がある在日の子どもの方が高いと思う。ちなみに中国では、未識別民族や外国人中国籍加入者、これらの人々と漢族の間に生まれた子どもなどは少数民族として認められていない。

(月刊『イオ』No.119=2006年5月号掲載)