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読売新聞 2020年3月9日 夕刊「千家尊福 出雲信仰の礎」

佐藤行彦
 
 

 明治時代に出雲大社(島根県出雲市)の第80代出雲国造(宮司)を務め、東京府知事や司法大臣なども歴任した千家尊福(1845~1918年)の生涯について、岡本雅享・福岡県立大教授(政治社会学)が新著『千家尊福と出雲信仰』(ちくま新書)にまとめた。「生き神様」と呼ばれ、出雲信仰を全国に広めた尊福の人物像や、現代にも通じる政治思想などについて岡本教授に聞いた。(佐藤行彦)

 

 出雲大社は縁結びの神様として知られ、大国主大神をまつる。千家家は古来、出雲大社の祭祀をつかさどり、世襲で宮司を務めてきた。古代出雲王の末裔ともいわれ、上古に大和政権が地方豪族に与えた官職「国造」を代々名乗っている。

 1872年に国造となった尊福は、旧来のしきたりを革新していく。歴代国造で初めて自ら各地を布教し、73年に出雲大社教会を設立。82年、教派神道の一つとして神道大社派(現在の出雲大社教)が政府に公認された。明治末には信徒の数が当時の人口の1割近い433万人に達した。

 岡本教授は「生き神視される国造が直接、庶民に語りかけるのは画期的で、各地で熱狂的に迎えられた。激動の時代に生まれ、新しいことに挑戦する熱意と若さ、広い見聞がありました」と指摘する。

 尊福の手腕は明治政府にも伝わった。27歳の時に民衆の教化活動を担う「全国教導職」の最高位・大教正と、西日本の神社を束ねる神道西部管長に任命される。

 ところが、東京の神道事務局に大国主大神をまつるかどうかを巡り、伊勢神宮(三重県伊勢市)の田中頼庸大宮司らと対立。論争は全国に波及し、政府の介入で事態は収束するが、これをきっかけに尊福は教導職を退く。

 その後、尊福は移動中の汽車で偶然出会った伊藤博文らに誘われ、政治家に転身する。1889年に大日本帝国憲法が発布され、90年、貴族院議員になった。

 「明治維新は当初、祭政一致の国家体制を目指した。人々の安心立命が尊福の主眼で、宗教家として政治に関わることに違和感がなかったのでしょう」と岡本教授。

 尊福は庶民に寄り添う政策を進めた。当時は貴族院議員と知事の兼務が可能で、98年からは約10年間、東京府知事を務め、多摩川水源の森林保護や東京勧業博覧会を成功させた。

 博覧会では、記章を付け忘れて会場を訪れたために警備員に追い返され、「今度の警備員は規律がよい」と笑い飛ばしたとの逸話も伝わる。

 その後、西園寺公望内閣の司法大臣に就くなどしたが、1911年に国造の弟が急逝すると政界を引退し、大社教総裁に戻った。

 「尊福は力を持つ者ほど自らを抑制する『徳義による治』を実践し、誰にでも気さくに接した。現代は政教分離が前提ですが、尊福の精神には見習うべき点があるはずです」

 

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