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山陰中央新報 2014年8月26日 
多種多様な共同体「日本」―単一国家 とらえ方に疑念

平野芳英(荒神谷博物館副館長)

 「荒神谷遺跡出土の銅剣は大和民族に敗れた出雲民族が埋納した」という説は最近トーンが低くなったようだ。出雲民族や大和民族という用語を使い慣れた世代の人が、減ったせいだろうか。それはともかく、出雲民族という概念と言葉は明治20年代に作られ、一方、敵(かたき)役の大和艮族は、明治21(1888)年4月の『日本人』第2号に志賀重昂が初めて使ったという。大和民族に敗れた出雲民族が銅剣を埋納するという思考には、出雲の国譲りやエミシやクマソ征討など、記紀神話に基づく国家統一神話の影響が根底にある。

佐々木俊『蘇れ出雲族』
佐々木俊『蘇れ出雲族』

記紀に遅れて完成した出雲国風土記の世界は、記紀神話とは異なる出雲世界を伝えているが、記紀神話を基礎に作り上げられた歴史観は日本国民の間に広く深く浸透している。

 ところが、エミシ反抗の長(おさ)アテルイの復権やクマソ復権の運動が1980年代から、東北や熊本で起きている。それぞれの地域で平安な生活を過ごしていた祖先は、記紀神話でいう倭(やまと)に「まつろわぬ」人々として、畿内の権力者に一方的に制圧されたのではないか。アテルイやクマソの子孫は自らの地域を覆っていた一方的な史観による歴史の誤りに気がついたのである。

幕末を経て明治の中ごろでさえ、日本国内は各藩出身者同士の間で言葉が通じない国であり、その事例は幾つもある。だから西郷隆盛と勝海舟の会談が、TVドラマのようにスムーズな会話であったか疑われる。

だが、明治27(1894)年の日清戦争以後、日本の植民地を統治する統一言語として「国語」が必要とされた。それで東京山の手のごく狭い範囲に住む住民の話し言葉を中心に「標準語」という人工語が生み出される。以後各地の方言は、標準語の話者から一段蔑まれた。方言はその風土の細やかな感情を表現する良さがあるにもかかわらず、方言やその話者をサブカルチャー的にしか扱わない風潮が今も続く。日本国内の言語の均一化が完成したのは1980年代という。

 上記のことは発刊されたばかりの『民族の創出』を読んで気付き、考えさせられた。島国根性とは閉鎖的な考えをし、外に向かって進展しない国民気質なのか。そうではなく島を取り囲む海は他の国々に向かう数限りない「流動の路」であり、他者を迎え入れる「寛容の路」でもある。古代出雲人が航海術に長(た)けた海民として日本海沿岸に、能登半島から越へと続く独自の文化圏を形成したことは既に周知のことだ。

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能登国一宮・羽咋気多大社(石川県羽咋市):出雲の気多島が起点とされるケタ(気多・居多)神社は、越中、越後でも一宮となっている

 本書の著者で出雲市出身の岡本雅享さん(福岡県立大准教授)は4年間で約80回、本紙で「出雲を原郷とする人たち」を連載中だ。彼は日本海沿岸から信州に入り関東に至る出雲人の足跡を求めて進む。さらにエミシもクマソも、宮古島の北の池間民族をも訪ね渉き、中国の少数民族問題を扱い、自らアメリカ西海岸に生活した数多くの経験から世界の国々の文化や民族の多様性を痛感してきた。

 だからこそ記紀神話を統一史観とし、言語の標準化など生活文化の多くの場面で進む同質性や均一性、昨今強調されるわが国の単一民族、単一言語、単一文化国家というとらえ方に大きな疑念を抱いたのである。

 本書の結語が秀逸だ。「郷土の風土の中で育まれた歴史や文化は、地域による優劣などなく、それぞれが長い固有の歴史の中で培ってきたかけがえのない尊重されるべきものである。各々の故郷と共同体を尊重しあえる社会を築いてこそ、その多種多様な共同体の総体としての日本であってこそ、より健全な愛国心も育める」。地域に住む人々の視野を広げ、勇気をもたらす。

 

掲載紙面

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