ホーム > 連載・寄稿 > エッセイなど > 記事 > 書評 『出雲神話論』週刊読書人 2020年3月27日

週間読書人3333号 2020年3月27日
書評 三浦佑之『出雲神話論』

岡本雅享
 
 
『出雲神話論』書影

 古事記研究の大家による渾身の1冊である。シックで重厚感溢れるその大著の「あとがき」には、執筆の動機がこう記されている。「古事記の研究史を眺め渡しても、古代史研究でも、出雲神話研究の世界においても、その研究の多くが一つの日本、唯一の日本へと集約されてゆく、そのような研究ばかりが目に付く……。日本列島は多様に存在する……のに、なんだかすべてが窮屈に、目指すべき一つの世界へと向かっている。すべてを中央や国家に収斂してしまうのではなく、外の世界へと拡散し解体し、日本列島を多様な営みの場としてとらえ返す視点を導入する。それによって、それぞれの地域は活性化されるのではないか」。本居宣長よりも長く『古事記』を研究してきた著者が辿り着いたのが、明治以降築かれ、戦後も変わることのなかった古事記研究の脱構築(deconstruction)であることに、敬意を表したい。

 著者は古代文学者の立場から「情緒的な語りで人々を魅了」する古事記を、「歴代天皇の味気ない記録」である日本書紀と「まるで8歳違いの双子でもあるかのように」融合させようとする「記紀」という併称は不当であり、その呪縛から古事記を解放すべきだと訴えてきた(『古事記を読み直す』ほか)。古事記は、律令国家や天皇家の列島支配を根拠づけようとする日本書紀とは性格も内容も全く違う別の書物で、かえって天皇の側に殺され滅ぼされた者たちへの親和性がより強いという。その象徴が本書のテーマ、古事記の中の出雲神話だ。古事記では天孫降臨以前の、出雲の神がみの活躍が多彩に語られ、それが神話の中核(全体の4割)をなしている一方、日本書紀は、それらをほとんど切り捨てている。

 この部分の正当な読解こそが古事記の理解に欠かせず、古代の日本列島がいかなる世界だったかを知る上で、大きな鍵を握っていると説く著者は、古事記のより精緻な読み解きによって、古事記認識の再構築を試みる。例えば、杵築(出雲)大社は、国譲りの代償に高天原(ヤマト)側が創建したというのは、日本書紀に引きずられた、本居宣長以来の誤読だとする。古事記だけを素直に読めば、オオナムジが根の堅州の国から戻って「宇迦の山」の麓に建てた宮殿が杵築大社であり、それはスサノヲの祝福のことばに保証されて存在し、天つ神の出雲制圧に根拠づけられるものではないとする。

 古事記に従えば、杵築(出雲)大社の創建は、根の堅州の国に行ったオホナムヂがスサノヲの試練を克服して地上の王となってもどる際に、スサノヲが祝福したことばによって保証されている。つまり、現在説かれているようなヤマトの側が建てたのが出雲大社だという説明はまったく間違っている。

 ただし、古事記の絶対のプライオリティを置くことが、実際の歴史を推察する際には、目を曇らせることもあるのではないか。本書で著者は出雲の「制圧」「滅び」という言葉を多用しているが、出雲国風土記の神話で出雲大神は「出雲国は譲らない、治め続ける」と宣言している。大社の創建も、出雲の神々が集まってオオナムチのために建てたとする。

 

 2017年7月にご一緒した新宿紀伊国屋セミナーで、著者が「最後に出雲神話論を書いて、私は死にたい」と言っておられた言葉が気にかかっていたが、本書あとがきの「この本に攻撃をしかけてくる輩が現れようものなら、すぐさま返り討ちにするべく技を磨いていきたい」という締めくくりをみて、取り越し苦労であったと安心した。今後その技が一層研ぎ澄まされていくことを期待したい。