ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第9部・大社教総裁へ⑤東京鉄道の社長に就任―市営化へ橋渡し役果たす 山陰中央日報 2018年11月28日掲載

千家尊福国造伝 第9部《大社教総裁へ》⑤ (2018年11月28日掲載)
東京鉄道の社長に就任―市営化へ橋渡し役果たす

岡本雅享

 明治42(1909)年春、尊福は東京鉄道会社の社長に就任する。同年4月1日の日記で「尊福が東京電車社長となるまでは多少八方に気兼を要する」と記す原敬が、借財を突く山県有朋派の攻撃をかわすべく推したとみられる。その日記に尊福が初めて出てくるのは39年3月17日、東京市内電車の値上げ問題で、府知事の尊福ら関係当局者を官邸に招き協議した時だ。

路面電車が走る明治44年の銀座通り(国立国会図書館デジタルコレクションより)
路面電車が走る明治44年の銀座通り(国立国会図書館デジタルコレクションより)

当時の東京では東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社が乱立・競合していた。収益本位で繁華街に路線が集中、乗り継ぎも不便など、市民の不満が募る。39年3月、3社による乗車賃の3銭から5銭への値上げ申請で、その不満が爆発。値上げ反対の市民大会は、電車や交番を焼き打ちする暴動に至った。事態を受け尊福らと協議した内務大臣の原は、値上げ申請を却下する。

その後3社は合併を条件に料金を4銭にする申請を行い、8月1日尊福が認可を告げた。前日の日記で原は、この時尊福を介し、労働者と学生は2銭に据え置くよう諭したと記す。こうして9月11日、東鉄が誕生。尊福の東鉄社長就任は、この問題に府知事として関与した経験も買われてのことだろう。

3社合併で誕生した東鉄だが、利益本位の体質は変わらず、市営化を求める声が拡大する。その中で42年1月に東鉄が運賃値上げを打ち出すと、東京市民は5団体連合による大会を開き運賃値上げ反対を決議し、当局は東鉄の申請を却下、重役一同が引責辞職した。

当時の経済誌『実業之世界』は、東鉄重役には真面目に事業を経営する意思がなく、専ら株式市場の駆引きに努め、停電や断線が頻出する憂うべき事態だったと批判する。新重役の選定には、大株主会が設けた渋沢栄一ら5人の選考委員があたる。その動向に注目が集まる2月半ば、尊福に白羽の矢が立った。同月15日付け読売新聞は、社長は「円満の人物にして、政府及び市民に重望ある人」がよく、尊福は最適任者だと報じている。3月末、東鉄臨時株主総会で社長就任が決まった。

 それから半年後の10月、桂太郎内閣が東京市内電車の市有化を内諾し、市は東電の買収にとり掛かる。11月半ばに始まった交渉で、5800万円と切り出した尾崎行雄市長に、尊福は6500万円なら応じると回答。1年半余りの交渉の末、44年7月5日に両者が仮契約した買収金額は6450万円だった。7月下旬、東鉄は総会を開いてこの契約を承認し、解散した。

この交渉の最中、43年5月半ばに尊福は久しぶりに原と会う。将来の政界を見通しつつ「二七会も政友会も冷静の態度にて時機を待つ」のが得策だと述べる原に、尊福も賛同。尊福を高く評価する原は、男爵から勅撰議員への鞍替えを含め(44年4月15日付日記)、尊福再起の術を考えていたのだった。

 尊福は44年7月の貴族院議員で四選を果たすが、同年11月大社教を揺るがす事態が生じる。15年尊福に代わって第81代国造となり、出雲大社宮司も務めてきた弟の尊紀が薨去したのだ。尊福は大社教の指導者に復帰する。もともと祭神論争などを経て出雲神道の守護者たらんとしての政界入りだったから、宗教者に戻ることに迷いはなかったであろう。