岡本雅享
尊福の弟、千家尊紀(たかのり)は万延元(1860)年6月16日、第79代国造・尊澄(たかすみ)の三男として生まれ、明治15(1882)年3月、出雲大社宮司となった。ラフカディオ・ハーンが世界に紹介した第81代出雲国造である。神官教導職分離令を受け、大社教管長となった尊福に代わって約30年間、その職を守った。尊紀がいたから、尊福は安心して列島各地を巡教したり、政界入りできたのだろう。その15歳年下の弟が44年11月24日、51歳で先立ったことは、尊福に大きな衝撃を与えたと思われる。
翌12月、尊福は66歳で大社教の総裁に就任した。第82代出雲国造には、後(大正3=1912年12月)に尊統(たかむね)と改名する尊紀の子・福麿(明治18年6月15日生まれ)が襲職。同月杵築に帰った尊福は、古式に則った火継の神事を自ら伝授した。明治初期の神社改革の中で、自身は火継式を行えなかった尊福には、その復活にかける強い思いがあったとみえる。尊福は、先祖伝来の火継式の次第を、大正2年末刊行の大著『出雲大神』に書き記し、後世に伝えた。
この時、東京から共に帰った息子の英麿は尊有(たかもち)と改名し、大正7年4月、大社教の第三代管長に就く。明治23年6月以来、尊福の後を受け、第2代管長を続けてきた尊愛(たかあき)にも早晩、後継者問題が生じる。その際、スムーズな引継ぎができるよう、尊福が道付けしたのだろう。尊福は45年4月半ばまで出雲に滞在し、大社教の運営や発展についても指導した。こうして千家国造家と大社教の行く末を次代に託した尊福は、45年7月の新潟を皮切りに、再び列島各地へ巡教に赴くのであった。
歌集『越の道ゆきふり』を綴った17年の新潟巡教から28年ぶりの来越で、尊福は旧交を温めながら「ともすれば忘れがちなる世の中に昔を捨てぬ人ぞ嬉しき」と詠む。その新潟から帰京して10日後の7月30日、明治天皇が崩御し、時代は大正へと変わった。この変動の中、尊福は大正7年1月に薨去するまで、中国、四国、九州、近畿、中部、関東、北陸を巡る教えの旅を、命の限り続けたのである。
当時の大社教機関誌『風潮』は、その尊福の旅を巡講(巡回講話)と称し、大教主・管長時代の巡教と区別している。確かに晩年の講話は、明治10年代の布教とは趣が違った。大正2年12月半ば、岐阜市内の県議会議事堂で行った講演「国民道徳の根源」では、政府の行財政整理で生じた巨額の剰余金を生かすにあたり、日露戦争中以来の非常税をやめ、人民の負担を軽減して民力の体養を図るべきで、世情に応じ相応しい制度を立て、それを幾度変えても構わないので良い方へ進めていくことが「政治上最も必要」だと説いている。四半世紀にわたり政界で要職を歴任した、ベテラン政治家の姿がそこにはある。
だが同時に尊福は、出雲大神の神徳を説く講演も各地で行っている。巡講の調整・段取りは大社教の職員が担い、大社教東京分祠幹事の佐々木幸見や周防分院長の大谷豊太郎など上級の教職が随行して前講を務めた。新潟で尊福を迎えた高田市在住の出雲人、徳谷竹堂は「越後における千家男爵」(『風潮』19号)で、世が世なら、容易に庶民が拝し得ない生神様を目の当たりに拝し、その聲咳に接し神道の福音を聴けるのは何と幸せだろうとし、尊福の天職は大臣の椅子を得るような政治活動ではなく、出雲神道の普及発展にあるのだと綴っている。尊福は時代のニーズに合わせた、新たな大社教布教の試みを実践していたのだと思われる。