岡本雅享
慶応4(1868)年3月28日、太政官は神仏習合化した神社から仏教的要素を排除すべく、神仏判然令を布告した。翌4月1日、比叡山延暦寺傘下の日吉(ひえ)山王社に武装した一団が押しかけ、仏像・仏具・経巻などを破壊、焼却する。同社の社司で神祇事務局(神祇官の前身)権判事だった樹下(じゅげ)茂国が先導したこの事件が、近代廃仏毀釈運動の始まりとされる。幕藩体制と深く結び付いていた仏教勢力を削ぐという政権の思惑を超え、この運動は民衆を巻き込んで暴走、長期化し、それを誘導した神祇官僚への批判も高まった。
政府は明治4年8月8日、廃藩置県後の官制改革で、神祇官を太政官内の神祇省に降格。真宗本願寺派の島地黙雷ら開明派僧侶の提案を受け、翌5年3月14日に神祇省を廃止し、神仏合同で国民教化を行う教部省を新設した。太政官は翌4月下旬、その教化活動を担う教導職(14階級)を設け、尊福を権少教正に任じ、6月12日、最高位の大教正に改める。同時に教部省から神道西部管長を委任された27歳の尊福が、当時の全国3府72県のうち、1府36県の神道教導職を統括することになった。
同年11月19日、父尊澄より国造職を譲り受け第80代出雲国造となった尊福は、近代国家に応じた出雲信仰の再編・発展に動き出す。翌6年1月、尊福らは大社信徒を結集して出雲大社敬神講を組織。同年9月にこれを改組した出雲大社教会を設立した。
いっぽう明治6年1月、東京に教導職の養成機関、大教院を設けた教部省は、府県ごとに中教院、府県下各地に小教院を設けて全国的な布教体制を整えようとしていた。大教院から中小教院の設置を任ねらされた尊福は、同年11月15日、大社庁舎(ちょうのや)(社務所)内に仮中教院を設け、民衆の布教を始める。
その一環として翌7年4月、大社は境内の文庫を書籍縦観所とし、一般にも開放した。3月島根県に設置申請をした尊福は、前年11月松江で開設された書籍縦観(しょうかん)所を見て大社でも、と思ったのだろう。島根県庁による同縦観所は、境二郎権参事の布達に「文部省書籍(しょじゃく)館の体裁を模倣し……小学校内の修道館書生寮を以て書籍縦観所と為し」とあるように、近代的公立図書館を志向していた。
大社の仮中教院内縦観所報告は「従来、出雲大社神庫に蓄蔵する皇(和)漢洋の書籍は申すに及ばず、大宮司千家尊福その他神官の収蔵少なからず……開明文運日進のご時節に当り……之に依り人才教育文化進歩の稗益あらん事を計り、この度仮中教院内に書籍並びに日誌新聞紙縦観所を設け」たので「神官・僧侶は勿論、士民一般有志」も利用するよう呼びかけている。寛文7(1667)年の遷宮で建設された文庫は、造営予算の一部で買った神道書や、徳川光圀など諸家からの寄附・奉納書を所蔵していた。それに神社や社家が所蔵する書物を合わせ、神職・教導職の勉学や庶民の啓蒙に当てようとしたのだ。
この図書館は大祭や祝日の外は毎日午前8時から4時まで開き、閲覧料は1日1銭、新聞は無料で閲覧できた。仮中教院から職員が交代で出て閲覧者の質疑に応ずる、司書に当たる仕組みも取り入れていた。明治5年6月設立の文部省書籍館(後の帝国図書館)から2年足らず、最も早期の近代的私立図書館事業だった。尊福の高い見識を伴った進取の気性が窺える。