岡本雅享
明治5(1872)年、26歳で出雲大社大宮司に就任した尊福は、新政府が幕藩時代の旧習として御師の廃止を命じる中、列島各地の出雲講や甲子講に「拡張方」を派遣し、信徒の結集を図った。翌6年正月、出雲大社敬神講を組織し、地方講社との連絡を確保した尊福は、2月より自ら布教に乗り出す。同月、平田の宇美神社で行った説教では約5千人の聴衆が、松江の末次(須衛都久)神社では寒風飛雪の中、約1万5千人の聴衆が集まり、「講堂狭阻(きょうあい)にして……聴聞する席無く、空しく帰れる者」も千人を超えたという。
こうして新たな布教基盤を築き始めた尊福が、この時期行った文化活動に、博覧会の開催もある。同年3月、尊福は大社職員(社家)の平岡可美や佐草文清らを博覧会掛に任じ、松江に派遣して県庁とも打合せるなど、準備に当たらせた。開催前に出した「出雲大社博覧会禀告(ひんこく)」では「博覧の会たるや人の知見を広め、才識を開き、其の益甚大なり……来る五月十日より三十日まで……会場を大社境内に設け、大社の什(じゅう)蔵器を始め」普く陳列し「共に開明の境域に進歩せんと欲す」と広報している。
5月7日教部省に届け出、翌8日、権禰宜の広瀬綱鋹らが出雲大神にその開催を奏上する祭典を執行し、陳列を始めた。準備万端整えた尊福らは、新政府が初参加したウィーン万国博覧会(5月~10月)に合せる形で、出雲大社博覧会を開く。
この博覧会は大社神事所、(現神楽殿一帯を含む)千家邸、乗光寺の三会場で、大社や県内の社寺、諸家が提供した名宝、什器、書画数百点を展示し、乗光寺では動植物の観覧や物品の即売会も催された。同時に煎茶書画会、芝居や相撲、競馬や浄瑠璃の興行もあり、境内は多くの人で賑わったという。神社や社家の所蔵品を活用して民衆教化に当てる発想は、後の図書館事業と同じだ。
尊福らは明治6年8月21日、敬神講を教会組織に拡充すべく「出雲(大社)教会仮条例」を起草し、教部省に設立申請した。その第6条は、同社は「幽冥(かくりよ)の大政府にて、世の治乱吉凶、人の生死禍福に関する所なれば、人民の生産より死後に至る迄、悉く大神の恩頼に洩る事なき」と主祭神の神徳を示す。
一方「社中孝子貞婦義僕等あれば……世話掛より教会所に達し……褒賞を授くる」(第10条)、「社中の子弟、入校の年齢に至れば、学校又は教院に入て身心を鍛錬し、人事を修めしむべし」(第12条)、「社中の者は、親睦協和を旨とし、婚礼葬祭その他吉凶慶弔等は互に相扶助し、同社中の交義を尽す」(第14条)など、安心立命の互助組織的性格も見られる。「社中の者、出雲大社に参拝する時は、殊に親しく拝礼する事を許し、又神宝を拝覧せしむ」(第9条)といった特別待遇も謳う。だからこそ「千人を一講とし、一講に講社長・副講社長を立て」る(第17条)規模を成し得たのだろう。尊福の組織者としての手腕が伺える。
明治8年12月には、大社の銅鳥居近くに信徒の祖霊を祭る祖霊社が完成する。神職とその家族の神葬祭は神祇事務局が慶応4年閏4月に許可したが、一般人は明治5年6月だった。尊福らは翌6年1月、敬神講の結成に続いて祖霊社の設立を教部省に申請、翌月許可を経て造営を始めていた。祖霊社の完成は、大社と信徒の結びつきを一段と強めることになる。