岡本雅享
慶応3(1867)年12月9日、討幕派は王政復古と幕府・摂関の廃絶を宣言した。徳川幕府の統治を否定するため、当初は天皇親政の象徴「建武の中興」(14世紀前半)への復古を唱えた討幕派だが、それでは鎌倉幕府や古代摂関制を否定できない。結局「王政復古は務めて度量を宏くし、規模を大にせん」という玉松操(みさお)の意見を岩倉具視が採用し「神武創業の始(はじめ)」という神話時代への回帰が設定された。維新政権初期の行政機構が、名称から構成に至るまで古代の律令官制と同じだったのは、その表れだ。
王政復古を掲げた維新政権は慶応4年3月、江戸城総攻撃前(14)日、公卿・諸侯・百官を率いた睦仁天皇が、皇居紫宸殿に神座を設けて招いた天神地祇に誓う形で「五箇条の誓文」発布を行う。その前(13)日には大宝令(701年)による設置とされる神祇(じんぎ)官再興の布告を発した。
古代の祭政一致では神(天つ神)祇(国つ神)の祭祀を司る神祇官が、行政を司る太政官に勝る最高位の官庁で、まさに王政復古の象徴だった。新政府は同年閏4月21日の政体書で、太政官内に神祇官を設置。明治2(1869)年7月8日の職員令(官制改革)で、律令二官制を復活して神祇官を太政官の上位に置き、その下に国民教化の宣教使を創設した。
こうした情勢を見ながら、千家国造家では同年1月7日、老齢の尊孫(たかひこ)が嫡子尊澄(たかすみ)に国造職を譲る。同年春、尊澄は第79代国造として、嫡子尊福と共に京を訪れた。その1月の滞在中、尊澄が歌人や学者と交わる中、24歳の若き尊福は津和野藩主の亀井茲監(これみ)(1825~85年)や平戸藩主の松浦(まつら)詮(あきら)など政界の重要人物とも面会している。当事、神祇官副知官事として出雲大社の旧典調査の勅命を受けていた茲監にも、尊福と会っておく必要があったのだ。
尊福は明治4年春の東京滞在中も、神祇官権中博士、伊能穎則(ひでのり)邸での歌会に参加。自らの旅邸で催した歌会で、晩年の大国隆正(津和野藩校養老館教授、1793-1871年)とも面会している。平田篤胤の門人で文久2(1862)年、石見国邇摩郡で大国主神の故跡を見つけ神社を再建した折「大国」に改姓した隆正には、大社崇敬の念があっただろう。
政府は明治4年5月14日、太政官布告で「神社の儀は国家の宗祀にて、一人一家の私有にすべきに非ず」とし、維新にあたり「伊勢に在る両宮世襲の神官を始め、天下大小の神官社家に至る迄、精撰補任致すべき」旨通達した。これにより千家尊澄・北島全孝(たけのり)両国造も罷免されたが、太政官は翌5年1月、尊福と全孝の嫡子脩孝(ながのり)(1834年~93年)を大社の大・少宮司に「補任」する。当事神祇官では亀井茲監や隆正門下の福羽美静(ふくばよししず)(1831~1907)など津和野藩主従が要職を占めていた。神祇行政の中枢にあった茲監らは、直に接した尊福の才覚を認めていたのだろう。
明治4年春、東京で催した歌会に、尊福は初期の神祇官で最高位の知官事だった近衛忠房も招いている。その後の神祇官再編で、忠房と並ぶ大副まで昇った美静は養老館時代、千家俊信の門人、岡熊臣に師事していた。尊福が大宮司に就いた背景が見えてこよう。