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岡本雅享
明治42(1909)年、雑誌『太陽』5月号が、全国読者の10万人を越える投票結果により発表した「宗教界の泰斗」。そこでは大谷光瑞(浄土真宗本願寺派門主、3万810票)や内村鑑三(1万242票)を大きく引き離す4万7838票で千家尊福が1位に選ばれた。この時「文芸界の泰斗」1位の夏目漱石が1万4539票、「政党首領適任者」1位の犬養毅が1万7525票だったことからも、尊福の票の多さが分かる。
出雲大社教の今西憲大教正(1900~91年)は1968年、新人だった頃に接した晩年の尊福公を偲び「いかなる時でも大きい御声をなされぬ、いつも変わらぬ静かにお諭しになる様な御口ぶり、時には御気に召さぬこともあろうに、いつも変わらぬ温顔で私等にまで接して頂く。生神様とはこんな方をいうのだろうと思った」と述懐している(『幽顕』674号)。その尊福は、優れた指導力を備えた組織者でもあった。
新政府が明治4年1月5日に出した社寺上知令(太政官布告)で、出雲大社は境内を除く3361石の神領を失って経済基盤を削がれ、続く官選神職制の導入で、両国造家で500人以上いたという神職も大幅な削減を迫られた。御師も廃止となり、大社が列島各地で築いた檀所との関係も断絶しかねない状況に陥る。その一方で翌5年3月、教部省を設置した政府は、神官や僧侶を教導職に任命し、国家一元化による神仏合同の国民教化に乗り出した。
こうした激動の中、尊福は同年6月、北島脩孝(ながのり)と連名で一通の伺書を教部省に出す。出雲国造は古来、神火を受継ぎ潔斎を常としてきたが、維新にあたり、従来の通り潔斎をし続けるべきか、尤も旅行等の際には行き届き難い事もあるので、大社祭事の前後だけ潔斎すべきか、という内容だ。神火による食事や黒土(くろつち)を踏まない禁忌のため、明治2年に尊澄国造が尊福と上京した折も、斎火殿用具を持参し、国造は駕籠での移動だった。
尊福を同月、教導職の最高位である大教正兼(1府36県を統括する)神道西部管長に任命した教部省は、この問いに「祭事の外平常の儀は、世上一般差支え之無き様、改革致すべき」と答える他なかった。往古からの禁忌を撤廃しようとすれば、当然大社内で反対意見がでよう。そこで敢えて教部省に照会し、導いた回答を説得にあてたなら、見事な手腕だ。こうして同年11月19日、27歳で第80代出雲国造となった尊福は、地面の上を直接歩き、神事以外では一般の火で調理した食事もとるなど移動の自由を得て、歴代国造の中で初めて、自ら列島各地を幅広く巡教することになる。
出雲御師が檀所を築いた各国では、明治初頭も出雲講や甲子講などの信者団体が活動していた。尊福はその結びが途絶えぬよう、これら諸講を結集して明治6年、出雲大社敬神講を結成した。その後、改組を経て誕生した大社教は、大正2(1913)年の尊福著『出雲大神』で「教師の職にあるもの4187人にして協賛員1万4892人を算し、教徒433万6649人の多数を有す。本祠の外に東京分祠ありて全国を二分し……分院20箇所、教会所170箇所あり」という教勢に至る。同年日本の総人口は5336万人だから、全人口の1割近くが大社教の信徒だったことになる。冒頭の得票数に頷けよう。