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岡本雅享
千家尊福の祖父、尊孫が天保13(1842)年に編んだ『類題八雲集』。その作者姓名録には大社神官や出雲国内の神社関係者の他、松江藩士約60人も含まれていた。中でも歌を尊孫に、国学を同藩侍講の中村守臣(もりおみ)(1779~1854年)に学んだ森為泰(ためやす)(1811~75年)は藩校文武館の歌学訓導を務めた逸材だった。尊福とも親しく、明治4(1871)年1月に東京へ向かう尊福を松江で見送っている。そして同年4月6日、東京の旅邸で尊福が開いた歌会には、中村守城が参加している。守臣の養子にして尊福の師、中村守手(もりて)(1820~82年)の子だ。いずれも明治期まで活動していた鶴山社中の人脈である。
大社の社家に生れた守臣は、早くから千家俊信(としざね)の梅之舎で学び、『類題八雲集』に6首入集する歌人でもあった。中村家は尾張、信濃、美濃に檀所をもつ御師で、守臣は尾張藩校明倫堂の国学教授、植松茂岳や儒学教授の秦鼎(かなえ)(1761~1831年)・世壽(よよほぎ)父子らと、名古屋で親しく交際した。世壽が纏めた『燕斎(たびのや)翁略伝』(安政2=1855年刊)によれば、尾張、美濃、信濃など東海、東山両道の人々が出雲大神の神徳を知ったのは、守臣の尽力によるという。また千家・北島両国造に侍講し、大社の学官と呼ばれた守臣は、しばしば江戸へも派遣された。その折、平田篤胤(あつたね)(1776~1843年)と出会う。『霊(たま)の真(み)柱』などで、後に尊福が築く大社教学の礎を供した学者だ。平田家の「気吹舎(いぶきのや)日記」天保4(1833)年1月12日条に「出雲大社中村文太夫と云ふ人来る、実名は守臣」とあり、その後守臣は度々平田邸を訪れている。五十音を論じ合った守臣が天保11(1840年)に出した音韻論『五十音』に、篤胤が跋(ばつ)文を書く仲だった。
実子のいない守臣が天保3(1832)年に迎えた養子が、守手である。国学、和歌、音韻を守臣から、儒学を秦世壽から学んだ守手は、安政年間(1854~60)に尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)の特遇を受け、度々謁見するなどして名を馳せた。著書は数十巻、門人は千余人を数えたという(明治19年『大日本人名辞書』)。守手が外遊していた頃、大社では弘化3(1846)年頃から老齢の守臣に代わって俊信の高弟の一人、周防の岩政信比古(1790~1856年)を招いていたが、尊福は信比古没後に帰国した守手に学ぶ。
20歳頃の尊福が守手との学習中に書いた「桜の林一巻中不審試論」。そこで尊福は、仁徳天皇が漢学を習い始めた天罰により、子孫が絶えたと説く信比古に対し、漢学の使用を罪と結び付けるのは、この国の学者に宿る弊害で、まず先達が説く事の根本を理解し、その後で弊害を論じるべきなのに、信比古は先に弊害をあげ、人の道が万国共通であることを忘れていると、その頑なな漢学排斥を批判している。信比古は尊福の父、尊澄の師であった。その信比古の説がおかしいと臆せず指摘する尊福を、守手は「此一論、堂々正々之陣也」と賞した。尊福はその頃、松江藩校修道館総教授で富永芳久の学友だった儒学者、雨森(あめのもり)精翁(1822~82年)にも学んでいた。本居宣長が漢意(からごごろ)と批判した儒学を目の敵にする国学者が多い中、尊福のバランス感覚と視野の広さが窺える。後の祭神論争で世に轟く尊福の鋭い論説は、すでにこの時芽生えていたのである。