岡本雅享
祭神論争における尊福の主張は、大国主神を幽冥の主宰神とする本居・平田本流の学説に沿っており、伊勢派も当初、正面的きって反論しにくかった。明治13年4月、東京で尊福が直談判に及んだ際、頼庸はもとより自分は表名合祀に賛成としながら、関係教導職の意見も聞かねば、とごまかしている。一方で、その4日後に四柱神の鎮座祭を敢行するといった頼庸の信義に悖る行動に、出雲派は苛立つ。
神道事務局は経済上の理由で、東京の神宮司庁出張所内に置かれ、経費面でも頼る所が多かったため、神宮大宮司頼庸の影響力は絶大だった。尊福はその状況を変えるべく、5月15日に17条からなる事務局改革の意見書を出した。これを受け在京の六級以上の教導職が集まった会議では、大国主神の表名合祀も討議され、参加者29人中24人が賛成する。関係教導職の意見も判明したのだ。
会議後、豊頴らは連名で祭神の表名合祀、本局の新設、局詰員の改選など五項目の実施を促す建議書を局詰教正に提出した。出雲派が再三返答を求める中、頼庸は6月7日に質問とかけ離れた返書を尊福に送る。これに対し尊福は一連の交渉顛末を全国の分局等に送り、意見を求めた。豊頴らが連動して全国の教導職・分局等に事務局改革を説く檄文「神道事務局保護之檄」を送ると、賛同者が続出した。
尊福は豊頴、平田銕胤(かねたね)らと連名で、この檄文に賛同する同志会議を8月、東京神道事務分局で開く旨を各地の教導職に通知。慌てた事務局は豊頴の分局長罷免を通告するが、東京府下の神官教導職166名が連名で反対、豊頴は分局長を続けた。事務局膝元の東京では豊頴らの支持者が多く、大勢は頼庸らの不利に傾く。
事務局は8月の同志会議を阻止すべく、各府県分局へ私的な会議に応じる必要はないと通達したが、全国78分局のうち47分局が参加の意を示した。ここに至って内務省社寺局長の桜井能監(よしかた)が調停に乗り出す。8月後半から一月をかけ、関係者による協議を重ねて9月25日、11月の大会議開催等を含む協議内約を合意・調印した。だがこれに不満な神道扶桑教会長の宍野半(なかば)らが10月に入り、同じ薩摩出身の内務卿松方正義に、信徒らの「面前で尊福と対決せん」と働きかけた。
それら上申書で「尊福が説く如く大国主神が幽冥の主宰神で死後の霊魂を審判するならば、歴代の皇霊も悉くその支配下」となり(芳村正秉(よしむらまさもち)他13名)、尊福は「君上(天皇)と相対する主意を痛論し、君上の御霊魂に対し障碍あり」(宍野半)と非難したのは、松方が桜井への指示で「本件は国基に響き、皇族にも渉る」と語ったからだろう。
攻撃は身の危険に及ぶ。上京し出雲派の巨頭に会見を申し込んだ伊勢の学館教頭が、白刃を突きつけ改説聴従を迫る。尊福を暗殺すべしと騒ぐ者も出た。竹槍で囲まれ脅迫された尊福が、たじろがず平然とその中を歩いていたとの逸話も、千家家に伝わる。少壮学徒の刺客が伊勢から陸続と上京との噂まで流れた。伊勢派の先鋭、折田年秀(湊川神社宮司)などは鹿児島藩の大砲方だったから、真実味があったろう。
神学論が政争へ転じる中、尊福は「別立」の遺志を固めてゆくことになる。