岡本雅享
明治8(1875)年に新設された神道事務局の神殿に、大国主神を祭るべきとする尊福の建議をめぐり、神道界が出雲派と伊勢派に分裂・衝突した祭神論争。この事件を14年2月の勅裁で収束させた政府は、翌15年1月に神官と教導職の兼務を禁じ、神社と信仰の切り離しを図った。これに対し尊福は布教の道を選び、出雲大社の宮司を辞して神道大社派(後、大社教)を別派独立させ、初代管長となる。祭神論争が大社教の特立を齎したのだ。
1968年刊行の『明治維新神道百年史』の中で、小林健三(当時玉川大学教授)は「祭神論の根底にあるもの」と題してこう述べる。「明治の神仏分離・排仏殿釈の措置が、民心に極めて深刻な動揺を及ぼし、その反動として民間において、民間人による信仰団体が講社の名を以て全国諸方に勃興してきた。維新の大変革による心の動揺を信仰によって収め、安心の地を得たいと念願する民衆の心理が求めた内心の欲求に他ならぬ」と。明治6年1月に尊福らが結成した出雲大社敬神講は、その最たる例だ。
新政府は明治初年、キリスト教の進入を防ぎつつ、民心を天皇に結集させるべく、神道による国民教化を目指した。神仏分離や廃仏毀釈の背後には、民衆の精神世界から仏教を取り除き、神道に置き換える狙いがあった。その宗教的空白を埋めるべく民衆が頼ったのは、結果的に天皇崇拝に直結する神道だけではなかったが、新政府は当初、神道の宗教としての確立を望んだ。その際、王政復古や祭政一致など、天皇親政の主導原理となった平田篤胤らの復古神道が主体となったのも理である。
実際、初期の神祇行政を主導したのは、平田延胤(のぶたね)(篤胤の養子・銕胤(かねたね)の子、1828~72年)や矢野玄道(はるみち)ら篤胤の神学を受け継ぐ国学者たちで、彼らは明治零年代前半、霊魂の行方や死後の世界を説く書を次々に著した。その平田派の神学は、大国主神を死後の霊が赴く幽冥(ゆうめい)界を掌る神と位置づけていた。この時期、神祇官下の宣教使で公刊され、尊福が8年の建議で根拠に挙げた『神魂大旨』も、顕界(現世)では天皇の統治を受け、幽界(霊界)では大国主命の糺判を受け、その賞罰に預ると説いている。
明治6年に始まる大教院の教導法の中にも、来世観を確立して人民の死後の安心立命を固めるという一条があった。同院が編纂刊行した『善悪報応論』は、玄道著作中の説を用い「善悪・曲直を審判するは大己貴神の大権」などとし、来世観を述べている。
大教院下の教導職が講じるべき十一兼題の中にも「人魂不死」や「顕幽分界」など平田派神学が色濃く含まれていた。大教院刊行の教義書の中では、神道東部管長の近衛忠房と西部管長の千家尊福が二人で著した『神教要旨略解』が、最も広く出回ったとされる。そこでも顕幽二界の神徳が重ねて説かれていた。
尊福が6年11月、教導職最高位の大教正として大社庁舎に仮中教院を設けた際、造化三神、天照大神と共に大国主大神を祭ったのは、首尾一貫していた。幽冥(かくりよ)を主宰する大国主神を表名合祀しなければ、教法の根幹が成り立たないとの主張も、大教院で説かれた教義に沿っていた。それがなぜ反対にあい、大争議に至ったのか。この神学論争の大元を流れる政治の動きも、見ねばなるまい。