岡本雅享
祭神論争は明治8年の神仏合同布教の停止に伴い、神道教導職が大教院に代わる機関として設けた神道事務局に祭るべき神をめぐって生じた論争だ。新築する神殿に造化三神と天照大神の四神を祭ればよしする同局に対し、尊福が大国主大神を加えるよう求め、伊勢神宮大宮司の田中頼庸(よりつね)(1836~97年)が拒んだ。二人の対立が高まる中、尊福を支持する者が出雲派、頼庸側が伊勢派と呼ばれ、全国神道界を二分する大論争に発展。収束を図るべく介入した政府が「神道は宗教に非ず」という国家神道路線へ舵を切る契機ともなった。
8年12月、神道事務局で神道会議が開かれ、仮神殿で教導職による四神の祭儀が行われるにあたり、尊福は大国主大神の合祀を提起した。これを議長の頼庸が頑として聞き入れなかったという。『本局改正日記』等に、同会議で「頼庸議長として可決を議員の多数に取らず」「議長の特権を以て衆員の可決を破棄せしもの数件あり」とある。
天保7(1836)年、鹿児島藩士の家に生れた頼庸は、文久2(1862)年に島津久光が兵を率いて京都入りした後、京都詰藩士となり、国学を学ぶ。慶応3(1867)年鹿児島へ戻り、翌年藩の神社奉行に抜擢され、その翌(明治2=1869)年には藩校造士館国学局の都講(塾頭)を兼任した。ここで頼庸は藩内1066カ寺を全廃し、僧侶2964全員を還俗させる苛烈な廃仏毀釈を主導して名をあげる。
明治4年に神祇省へ出仕し、翌5年設置の教部省では教部大録に昇進。そして7年1月、前任者・本荘宗秀の死去に伴い、神宮大宮司に就任した。祭神論争で伊勢派だった常世(とこよ)長胤(ながたね)も、神道事務局で「私権を専らにせんと奸謀を回らし」た頼庸の強権ぶりは批判している(『神教組織物語』)。4年以降の神宮改革を経て、生き神視された尊福とあまりに異なる人物が、伊勢の大宮司として現れたのだ。
尊福は11年5月と7月に神道大会議が開かれた際にも、事務局へ建議書を提出。その主張は民衆に神道による安心立命を与えるため、教義上の拠り所となる神道事務局の神殿に幽冥主宰の大国主神も祭る必要がある、という宗教者の視点で一貫していた。尊福は事務局神殿の落成と奉遷式が13年春に予定されると、1月、神道事務局詰の大教正と権大教正5人に宛て、大国主神表名合祀を早急に公論で決めるよう建議書を出す。
直ちに賛同したのが権大教正の本居豊頴(とよかい)(1834~1913年)だ。豊頴は宣長の曾孫で、その父内遠に尊福の父、尊澄が師事するなど、俊信と宣長以来の縁は続いていた。中でも天保7(1836)年、内遠に入門した富永芳久は壇所の紀伊によく滞在し、豊頴を幼少の頃から知っていた。豊頴は芳久の主著『出雲風土記仮字書』(安政3=1856年刊)に、序文も寄せている。
幕末、紀州藩の江戸古学館教授を務めていた豊頴は、明治6年8月、東京神田神社の神官となった。11年1月、同社内に出雲大社教会が東京出張所を置くと、豊頴は副教長となる。「本居豊頴伝」は、当時東京府神道事務分局長でもあった豊頴が、祭神論争で尊福支持の立場を貫き、伊勢派が大勢を占める本局と激しい鋭気を以て対決したと記す。平田篤胤の養子で千人を越す門人を受け継いだ銕胤(かねたね)も賛同。尊福は復古神道本家本流の支持を得たのだ。
明治2年1月、火継ぎ神事を終え第79代国造となった尊澄は「鶴山の松や知るらん今年こそ我身の千代の始めなりけれ」と詠んだ。38年在職した父尊孫から国造を受け継ぎ、さぁこれから、という思いが伝わる。だが太政官が5年1月、尊福を大社の大宮司に「補任」したため、尊澄は僅か3年で国造職を辞した。政府はさらに6年3月、いったん大社少宮司に任じた北島脩孝(ながのり)に、岡山吉備津神社への転勤を告げる。脩孝は国造家の伝統を無視した任命を断固拒否したという(出雲教『北島国造沿革要録』)。
一方、浦田は4~5年にかけて神祇官(省)、教部省の官吏となった後、5年7月、神宮少宮司となる。この道を通り、わずか数年で鹿児島藩の下級武士から神祇省出仕をへて神宮大宮司になった人物―それが祭神論争で尊福に対峙する伊勢派の領袖、田中頼庸(よりつね)だ。