岡本雅享
教法の信念に基づき政界入りした尊福は、明治25(1892)年8月成立の第二次伊藤内閣の下、文部省普通学務局長(同年12月就任)をへて第7代埼玉県知事に就任した。27年1月20日、時に尊福48才の冬である。尊福を知事にと内務大臣・井上馨へ推挙したのは、貴族院内で同志を集め研究会を主導する尊福を見ていた、議長の蜂須賀茂詔(もちあき)(元徳島藩主)だった。
当時埼玉は「難治の県」と言われた。江戸を擁する武蔵国から東京と神奈川の一部を分離した埼玉県は、近世十数の小藩が乱立していた地域でもあり、新たな中心や予算獲得をめぐる地域間の争いが激しかった。その中で内務官僚出の第五代知事・久保田貫一(士族)は、中央政府にのみ忠実で、衆議院選で強圧的に民党(改進党・自由党)を妨害するなどして、県会・県民の反発を受け失脚。第六代、平民出身の銀林綱男は県会に媚びていると中央政府から批判され、短期(1年1ヶ月)で非職になった。それ故「埼玉県政を円満に治められる人物」として、尊福が選ばれたという。
当初、地元紙『埼玉民声』には「幽り世を治める大国主に仕え奉れる御身」の尊福が現し世を治めるのは「いともったいなし」と驚き、また宗教者に県政が治められるのかと疑う記事が載った(第20号)。だがその評価は就任2日目の行動で一変する。この日、尊福は県内の郡長・警察署長を集めて行われる所信訓示で、直後の県会議員選挙での妨害行為を厳禁し、従来なかった出席者との懇談も催した。『埼玉民声』は次の21号で、新知事は「縉紳(しんしん)(高貴)の家に生長せし人に似ず……民間の俗情に通貫し、なかなか公卿様と受取り難いほど気敏の振舞あり」と記している。
尊福は祭神論争以来、列島各地を駆け巡ってきた。その中で嵩んだ出費で、千家家の資産が傾きかけた10年代後半のこと。家の子郎党が集まり「あなたは唯ここにじっとしていれば、人が皆神様扱いしてくれるのに、日本中を駆け廻り、人にもバカにされ、家の財産を倒すのはよくない、もう少し謹んで家にいてほしい」と尊福に諫言したという。この時、尊福は「自分が奔走しているのは栄誉名達のためではない、止めてくれるな」と答えた。
民衆の間では依然、生き神視される尊福だったが、祭神論争で対峙した元薩摩藩士・折田年秀(当時湊川神社宮司)の日記には「千家尊福、副管長の事につき憤激して退局す、実に狭小笑うべきの不体裁」(13年4月21日)、「千家より別立云々申遣したり、田中(頼庸)に(ては)大笑い」(13年6月22日)などと、大国主合祀論を真摯に説く尊福を嘲笑う記述が散見される。このような国造を嘲笑する人物にも接した祭神論争での経験、その後も列島を駆け回り、多くの民衆と接した巡教が、尊福の視野と度量を政界の第一線でも活躍できるほどに、高めたといえよう。
知事就任に際し、束帯を脱ぎ、紅塵にまみれ、功を願わず、県政に努めんという思いを漢詩に託した尊福は、27年4~6月にかけ延べ44日間にわたる大規模な県内巡視を行い、各地の郡長や町長から産業、教育、衛生など多方面の実情を直接聴いた。新潟や福岡での長期「巡教」で培った経験が活かされ、尊福はこの埼玉「巡視」でも民衆の心を掴んだことだろう。