岡本雅享
尊福が福岡巡教を終えた明治18(1885)年12月、政府は内閣制度の創設に伴い、太政官を廃止した。王政復古の維新体制から近代立憲国家への変貌の序幕だ。初代総理大臣伊藤博文は21年4月末に首相を辞し、憲法起草のため新設した枢密院の議長となる。それに先立ち枢密院と密接な、立法を掌る元老院に尊福を送り込む算段をしたのである。
いっぽう尊福は任官前に、第二代首相となった黒田清隆へ神道興隆や立憲政体に関わる四通の意見書を送った。そこで尊福は「独逸の如きは立憲君主政体にして英国は立憲君民同治なり、米仏両国は立憲民主国にして即ち共和国なり……我国の立憲政体は独に模するか、英によるか」などと述べている。尊福が在野の宗教者でいながら諸外国の政情に通じ、立憲政体について熟考していたのが分かる。伊藤と車中で対談した時、尊福は世界の趨勢から日本の前途を見わたし、国会開設後の先覚者の心得などを淀みなくと論じ、伊藤はこれほどの偉材を在野に置き続けるべきではないと、元老院議官に推したという。政治的見識も評価しての抜擢だったのだ。
尊福は自らの政治観を21年春、著書『国の真柱』で公表する。巻一冒頭で、立憲政体の樹立に当り、天下に率先して尽すのが国造家「祖先の遺志を継ぐ」ことで、今なさねば時期を失うという記述に、尊福政界入りの動機が窺える。同書で尊福は、この大改革で方向を誤らぬために、憲法制定前の段階が重要で、その際に人心を感化し気風を養成する宗教をおろそかにすべきでないとも説く。7年前、祭神論争の勅裁による終結で、大半が賛同した大国主神合祀論を捻じ曲げた政治の力を痛感した尊福は、自ら政界に入り政治力をつけることで、教導の道を全うできる世にしたいと思ったのだろう。
尊福には政治家へ転向する意志などなかった。元老院議官就任の前月に出した『国の真柱』巻二で、人を救い国に資する教法なれば、時弊を正したり禍を未然に防ぐ上では、政治家に先んじる位の智略・才力が必要と説き、教法家は世の先導者となるべきと記す。そのための政界入りだったのだ。
だから尊福は当初、宗教者のまま元老院議官に就くつもりでいた。だが就任の翌(21年6月8)日、同議官の柳原前光(大正天皇の叔父)が憲法起草中の法制局長、官井上毅に、議官になった尊福は神道家で、依然大社教管長の座にあり、説教を行い民衆の葬儀で斎主を務めても差支えないかと照会し、尊福は同日付で大社教管長を辞することになる。尊福自身、予期せぬ突然の辞任で金子有卿・本居豊頴の両副管長が代行するも、大社教では長らく管長不在が続いた。尊福の甥、千家尊愛(たかあき)が二代管長に就くのは23年6月だ。尊福は各地で信徒に「先般仕官につき直接布教の職を辞したれども、その主義精神は少しも変じたるに非ず」と説いている。
国政では22年2月に帝国憲法が発布され、翌年11月帝国議会が開かれる運びとなる。17年制定の華族令で男爵とされた尊福は、23年7月の貴族院議員互選会で男爵議員中の上位で当選。8月末には岩倉具定(具視の子)らと共に15人の政務調査委員に選ばれ、第一期帝国議会で第七部長に就くなど、当初から有力議員として活躍することになる。