岡本雅享
尊福が3ヶ月に及ぶ埼玉県内巡視を終えた直後の明治27(1894)年夏、日清戦争が勃発する。各地で義勇兵を組織する動きが起ると、尊福は8月11日付県報で「国に常制あり、民に常業あり」故に非常徴発の場合でなければ「国民たる者、各々その常業に安んじ」るべきで、現今その必要はない、と制する告諭を出した。
尊福は在任中、こうした県民の心構えを説く告諭をたびたび出している。教育、衛生、産業など、その数は22件に及ぶ。「世の先導者として立ち、人を救ひ、国を利する」という『国の真柱』で述べた教法の信念を実践したのだ。大社教で死への救済に取り組んできた尊福は、各地で催される戦死者の慰霊祭へも、よく出向いた。
戦中は戦費調達で県の事業が縮小されたが、翌28年春終戦に至ると、尊福は直ちに懸案事項の解決に乗り出す。埼玉県は当時、全国で唯一中学校のない県だった。県会と激しく対立した第5代久保田知事の設置案は悉く否決され、第6代銀林知事は任期中、提案を出さなかった。尊福は5月の臨時県会に尋常中学校設置案を提出。自ら県会議長の自邸を訪ね協力を求めるなどして県会とのバランスをとり、浦和と熊谷2校の新設を実現した。
尊福は『国の真柱』で、政府が施政方針を公にして国民に示し、言論自由の道を開いて国事に関する利害得失を論じさせ、努めて世論に従い治を計るのが「官民一致和合の根本」と説く。また、神意は人を独立自治の地に立たしめんとするもので、神道の拡張に尽力する者は、人民の権利を伸張する上での障碍を除くべきとも説く。尊福は同書で君主から家長、富豪や学識者に至るまで、社会的な優者が己の恣にすれば、劣者の不幸はこの上ないから「長たる者は率先して己を慎み、正しくして謙譲の徳を養う」重責があると、徳義による治も唱えた。
こうした理念や姿勢から、尊福は「温厚の君士人」として県民から尊敬され (『埼玉県政と政党史』)、30年4月まで、当時としては長期の3年2か月余の任期を務めた。この間尊福が県会で再議に付したのは、測候所新設と農事改良費の2件だけだ。いずれも自ら議場に立ち「人民が受ける利益」や「学理を実地に応用する」必要を説き、承認へ導いている。こうして埼玉県初の測候所が29年に熊谷で開設、農業巡回講話や製茶伝習所などの設置も行われた。
大社でいち早く図書館や博覧会などを開催した尊福は元来、社会事業への関心が高かった。18年の福岡巡教でも、旱魃による農民の飢餓・窮乏を救うため、11町8反余の新田を開く本城村(北九州市八幡西区)の開拓を行った大庄屋、佐藤扇十郎の家を訪れている。元老院議官時代の21年9月には大規模な水害を被った大垣を訪れ、自ら水害地の惨状を視察した。こうした交流・見聞・体験が、29年の水害対策(次年度の国庫補助費を待たず、出水期に備え工事を着工)などで活かされたと思われる。
尊福は県内発行の雑誌によく漢詩や和歌を載せた。かつての出雲御師たちが文才を活かして檀所の人々と円滑な関係を築いたように、埼玉県民も文人尊福に親しみを覚えたことだろう。