岡本雅享
明治18(1885)年、夏から冬にわたる福岡巡教を成し遂げた尊福は、翌19年も長期の巡教に出向いた。3月19日出雲を発ち、大社教美作分院がある(岡山県)津山を起点に兵庫県内に入り、旧播磨・摂津国域を6月半ばまで巡った。この間51ヶ所で開教、尊福の説教は72回を数えた。6月21日神戸を発った尊福は次の巡教地、岡山の旧備前・備中国域へと向かう。
その頃、岡山県内ではコレラが流行し、県は興行や集会を禁じ、6月21日から神仏の説教と小学校の授業も停止していた。その岡山へ23日着いた尊福を待ち受けていたのは、なお巡教を願う多くの信徒たちだった。尊福は県庁に赴き、大社教の主旨、療病衛生は出雲大神の教えの道だと説く。大社教で印刷した『コレラ予防説諭書』も見せ、開教の許可を求めた。
出雲大神は病気治療の法を定めたとする日本書紀などにより、医療神としても信仰され、近世の出雲御師たちは檀所に自家製の薬も持参していた。尊福らにはその伝統と実績が備わっていたのである。県令(知事)らはコレラ鎮静に資するという尊福の主張に賛同し、大社教に限り説教を許した。尊福の言葉と示す根拠には、県令らを従わせる力があったのだ。
尊福はコレラが蔓延する岡山県下で連日巡教し、その予防法を説き、数千枚の予防説諭書を配布した。毎回衛生担当の官員などが同席する中、尊福は神頼みだけで疫病から逃れようと思い治療を怠るのは誤りだと諭し、大社教信徒が予防摂生を尽くして疫病の蔓延を防ぎ、県民の模範となるよう説いた。疫病の流行に臆せず、布教を敢行した尊福に、人々は感銘を受けただろう。この件で大社教に対する官民の信用は一層高まり、19年の岡山・兵庫両県の巡教では数万人が大社教に入った。
岡山巡教を終えた尊福は7月2日神戸へ向け乗船、神戸に数日滞在後、7日に出航し9日東京へ着く。信徒の前では毅然とした姿を崩さぬ尊福だったが、連日の説教で巡教中から感じていた喉の痛みが船中でひどくなった。そんな体調不良に物怖じせず、同年12月には静岡県へも巡教に出向いている。
この精力的な巡教の最中、ある時、神戸から東京へ向かう汽車の中で偶然、尊福は初代内閣総理大臣を務める伊藤博文と出会い、語り合ったとの逸話がある。その才覚を直に知った伊藤は、尊福を政界に誘い込む。逸話の年月は不明だが、伊藤は21年3月7日、内務大臣山県有朋が蒲田で催した在京の各県知事、内務書記官の野遊に尊福を誘い、黒田清隆(農商務大臣)ら諸大臣に引き合わせ、自らは高輪の邸宅で2時間余り尊福と会談している(『大社教雑誌』第23号)。尊福が元老院議官に任じられたのは同年6月7日だ。この時43才で政界に入った尊福は、その後、帝国議会開設に伴い貴族院議員となり、埼玉・静岡県、東京府知事を歴任、司法大臣にも就くことになる。
出雲国造は延暦17(798)年に意宇郡大領の座から外され、政治的権力を奪われて以来、杵築大社で出雲大神の祭祀に専念するようになり、幕末に至った。その出雲国造の末裔である尊福が、実に1100年の時をへて政(まつりごと)への回帰を果たしたのである。