岡本雅享
祭神論争、神官教導職分離令をへて明治15(1882)年5月、神道大社派(大社教)を特立し管長に就いた尊福は、21年6月の元老院議官就任を期に政界へ進み出る。大社教初代管長の座にあったのは6年弱だが、この間に組織を拡充し、教勢を大きく伸ばした。
32年に宗教活動を終える神宮教の教信徒が28年で約280万人(葬儀を托す教徒が約15万人で、他は信徒)に対し、大社教の教徒は明治末頃で約434万人を数えた。祭神論争で尊福の信仰と信念に共鳴・賛同した人々が、続々と大社教に加わったとみえる。近代出雲信仰の興隆を体現し、その牽引力ともなったのは、彼らが各地に樹立した大社教の分院(府県・国単位、20カ所)や教会所(市郡・町村単位、170カ所)だ。その中で唯一尊福自らが設立したのが、東日本の教務を統轄する東京分祠である。その前身として11年1月、神田神社内に設けた出雲大社教会東京出張所は、祭神論争における出雲派の拠点でもあった。
尊福が祭神論争で大国主神表名合祀を断念した明治14年1月28日、本居豊頴らは37名の同志連署で尊福に「神殿建築同盟書」を贈り、将来東京において大国主大神の神殿を新築し、尊福と共に幽冥主宰の神徳宣揚に尽力することを誓った。その豊頴を尊福は14年11月、出雲大社教会の教長に任ずる。豊頴は15年4月に神道事務分局長を辞し、出雲大社教院東京出張所長となった。同月、東京出張所は神田神社内から麹町に移って単独の施設となる。
この時出された出雲大社教院東京出張所設立主意書は、大国主神は幽事を掌り、生前の幸福を冥護し、死後の霊魂を救養する幽冥主宰神であると明記し、東京や関東一円の人々の入会を促し、出張所に神殿・講堂を設けて祖霊社も建築する旨広告している。翌16年5月に祠宇(しう)(神殿)が落成、尊福自らが出雲より御分霊を奉じて鎮祭し、大社教東京分祠が生れた。こうして豊頴らの誓いが実現し、大社教は関東以北の布教を進める基盤を固めたのである。同分祠は22年10月に麻布材木町(現港区六本木)へ移転後、24年4月に祖霊社も造営している。
尊福は出雲大社大宮司兼大教正となった明治5年から、出雲を起点として島根県内の巡教に乗り出し、その範囲を周辺の中国地方各県、四国の愛媛・香川へと広げていった。大社教を特立した15年も、10月に徳島県阿波郡の香美教会所、12月に美作国津山の美作分院で鎮祭式を執り行い、両県内を巡教している。
10年代後半は、より遠方における長期の巡教に挑んだ。16年9月、武蔵国西多摩郡青梅一帯で有志120余人による招聘を受け巡教したのが、東日本における本格的巡教の始まりとされる。この時、平田銕胤の門人で江戸出身の井上頼圀(よりくに)が青梅に先発して巡教の下準備をし、また大社教岡山分院長の松尾郡平が同行して説教をしていた。幅広い人脈が、尊福の全国各地への巡教を可能にしたのである。
翌17年秋、尊福は2ヶ月をかけて新潟県内を巡り、18年夏からは半年にわたり福岡県内を巡教した。歴史や神話で出雲と縁の深い越と筑紫を巡る旅は、感慨深かったのだろう。数ある巡教の中で、この2地域だけ、その様子を詠んだ歌集『越の道ゆきふり』『筑紫の道ゆきふり』を出している。