ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第6部・越へ筑紫へ②祭神論争で誓った出雲大神の神殿―東京分祠を自ら創立 山陰中央日報 2018年7月24日掲載

千家尊福国造伝 第6部《越へ筑紫へ》② (2018年7月24日掲載)
在野の宗教家として臨んだ新潟巡教

岡本雅享

 

 祭神論争をへて国家神道路線へ舵をきった政府は、神官教導職分離令に続き、明治17年8月11日の太政官布達で神仏教導職の廃止を告げた。これにより神道事務局は消滅し、神道各派の管長が教師を任免し、教規を定め、内務卿の認可を得ることになる。尊福は東京へ赴き、官庁で状況を把握しながら大社教教規を定めて申請、教内に対応を指示するなど、忙しい夏を過ごした。

 この17年夏の上京に始まる『越の道ゆき布里(ふり)』(ふり=様子)は、政府任命の教導職でなくなった尊福が、名実ともに在野の宗教者として臨んだ最初の巡教を綴った歌集だ。出雲と越の間には古くから海を渡る往来・交流があった。出雲崎や小出雲などの地名、出雲神を祭る古い神社、出雲大神と結ばれたヌナカワヒメの神話などが今も息づく。

 それ故に出雲大神を尊び敬う人も多い越後へ、自ら布教に赴きたいと尊福は思い立つ。祭神論争時の13年、新潟県神道分局・支局などの教導職は56人の連名で、尊福の大国主神合祀論に賛成する建議書を神道事務局に出していた。その頃新潟区に出雲大社一等教会所が、西・中・北の各蒲原郡に二等教会所もできていた。尊福は信者らの度重なる要請に意を決し、9月30日東京から越後へ旅立つ。

能生近くの海岸から能登の珠洲岬を眺め、歌を詠む尊福(絵・川崎日香浬)
能生近くの海岸から能登の珠洲岬を眺め、歌を詠む尊福(絵・川崎日香浬)

 この越後行きは新旧交通の混合だった。尊福はまず上野停車場で、同年6月に竣工したばかりの上野―高崎線の汽車に乗る。高崎駅に着くと馬車で三国街道を渋川へ。中山から猿ケ京へ続く山道は昔のままで「住人も見えぬ山路の菊の花千代の昔に誰か植えけむ」と尊福は詠う。三国峠を越えて越後(新潟)に入ると、三股から六日町まで陸路、そこから川舟で小千谷(おぢや)に向かった。長岡で新潟の信徒らの出迎えを受けた尊福一行は汽船で信濃川を下り、10月6日に新潟下大川前通の桟橋に着港している。

 尊福は新潟の教会所で5日ほど説教してから、今の新潟市一帯ほか、内陸の五泉市、新発田市、阿賀野市域も巡って布教した。幾日も「波の如く連なる山を越えこえて」山間の里を巡る旅の中、海を恋しく思う歌を詠む。杵築育ちの尊福は、沿岸の赤塚(新潟市西区)で深夜に波の音を聞き「近くも響く海の音かな」と安らぐ気持ちを歌にした。

 そこから弥彦、寺泊と沿岸を移動して出雲崎入りした尊福は「越路には神の御跡の数あれど名さへ床しき出雲崎かな」と詠む。隣の石地村では御島石部神社の山岸巌雄宮司から、渡海してきた出雲大神が浜辺まで桟橋のように続く岩礁を見て船を寄せたとの神話を聞き「大神もよしと寄りけむ長岩の」と詠う。

 その後も上越五智の居多、名立の江野神社など沿岸の出雲大神鎮座地に立寄りながら移動。名立から能生(糸魚川市)へ行く道で「沖つ風能登の三崎を今日みれば波も心も騒がざりけり」と詠った。当地の沿岸からは天気のよい日、能登の珠洲岬が望める。出雲大神とヌナカワヒメの御子神ミホススミの鎮座地だ。尊福は海を渡る神々の縁に思いを馳せたことだろう。

 尊福はヌナカワヒメの本拠地、今の糸魚川市内を布教の西端として折り返し、直江津から内陸に折れ、越後巡教の終点に定めた小出雲に至る。帰路は北国街道を南下して信濃に抜け、野尻や川中島を通って碓氷峠を越えて高崎へ向かい、汽車で東京に戻った。