岡本雅享
祭神論争が収束した明治14年、尊福は『大道要義』や『道の一草』など信徒向けの書を著しつつ、現行の『葬祭式』を完成させた。6年刊行の『葬祭略式』を、8年の祖霊社創建や合祀・霊祭を積み重ねる中で充実させて、大社独自の霊葬祭を確立したのだ。「幽冥大神に祈請し霊魂を慰安する」(上巻・祭式)など、尊福が祭神論争で唱えた大国主神信仰が基軸になっている。
ところが翌(15)年1月24日、内務省は神官の教導職兼務を廃止し、布教や葬儀への関与を禁じる神官教導職分離令を布達した。祭神論争の調停・収束にあたった同省の社寺局長桜井能監と内務卿松方正義、その後任の山田顕義らが、同様の教義論争が再発し、皇祖神の尊厳に影響を及ぼす危険性を憂慮し、祭祀と宗教=神社と教導の切り離しを図ったのだ。
教導職を辞せば、国家の官吏として身分と生活が保障されたため、多くの神官が教導職を辞す中、尊福は同年3月1日、出雲大社宮司を弟の尊紀(たかのり)に譲って辞し、在野の宗教家として立つ道を選んだ。祭神論争只中の13年6月、本居豊頴ら賛同者に宛てた書で、一時の偸安(とうあん)(目先の安楽)を計ることなく、今後別派独立するも必ず教導の精神を貫くとの決意を示した尊福ならば、当然ともいえる。
その後、政府が神道事務局から独立したい教会等に、派名の公称と特立を認めたため、尊福は15年5月10日、神道大社派を立てて初代管長に就いた(同年11月6日、神道大社教と改称)。宗教性を色濃く帯びた明治初期の神道政策は、祭神論争をへて完全に消滅し、政府は「神道は国家の祭祀で宗教に非ず」とする国家神道路線へ、大きく舵をきったのである。
信仰を保持する神道は、相次いで神道事務局から独立し、教派神道となった。伊勢派では神宮教院が神道神宮派となり、田中頼庸が管長となった(15年11月、神宮教に改称)。頼庸は神宮が移譲した土地建物を自分の名義にしたり、売却処分して提訴さるなど、神宮教でも紛糾を招く。頼庸の管長辞任(26年)後、神宮教は32年9月に宗教活動をやめ、財団法人神宮奉斎会に改組した。折田年秀は神官教導職分離令を機に官吏(内務省御用掛)に転向。17年8月の教導職廃止に伴い、神道事務局は消滅した。
祭神論争は出雲派の敗北とされるが、それを通じて尊福の信念や指導力が列島各地に知れ渡り、大国主神合祀論に多くの賛同者を得たことは、その後の大社教の教勢拡大につながった。全国の神道教導職が論争の実態を知るに至った13年夏、山形神道分局や対馬国教導職一同などが尊福への賛成を表明している。中国・四国が中心だった出雲信仰の版図が、尊福の名声と共に大きく広がったのだ。尊福を中心とする出雲派の団結は、豊頴が大社教の副管長に就くなどして続く。
政府が明治41年に全国の神社祭式を統一したため、神社では古来の祭式も行えなくなったが、出雲大社では大社教などで保存、受け継がれた。長い目でみれば、信仰を守り発展させ得たのは出雲派だった。
中央公論が1965年4月号で「近代日本を創った宗教人10人を選ぶ」を特集した。仏教は島地黙雷ら3人、キリスト教が内村鑑三、新渡戸稲造ら4人、新興宗教で2人が挙がる中、神道は唯一人、祭神論争故に千家尊福が選ばれている。