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岡本雅享
江戸末期、安政3(1856)年『丙辰出雲国三十六歌仙』に続き、翌4年『丁巳出雲国五十歌撰』、翌5年には尊福幼少期の歌を載せた『戊午出雲国五十歌撰』と、出雲歌人だけの歌集が相次いで世に出る。撰者は千家俊信の門人、富永芳久(1813~1880年)だ。
富永家は北島国造付きの社家で、紀伊に壇所をもつ御師だった。梅之舎で学んだ芳久は天保7(1836)年、紀州徳川家に仕える本居内遠(うちとお)(1792~1855年、宣長の養子・大平(おおひら)の娘婿)に入門する。内遠没後はその長男と親交した。後の祭神論争で尊福の強力な支援者となる本居豊頴(とよかい)(1834~1913年)である。
芳久は俊信の遺志を継ぎ『出雲国風土記』の普及に力を注ぐ。まず嘉永4(1851)年と6(1853)年に、風土記中の地名を詠み込んだ歌で『出雲国名所歌集』初編(152首、名所75ヶ所)と二編(194首、名所121ヶ所)を編んだ。二編の豊穎序文によれば、芳久は「風土記の神世の事の跡、古き名所どもの多く残りて尊きを、いかで世に広く知らしめむ」と思い、初学者が聞きなれない風土記中の出雲の名所を詠み込んだ歌を集め、次々出して人々が読めば、風土記自体も読まれるようになる、と考えたとある。続いて安政3年に主著『出雲風土記仮字書(かなぶみ)』を刊行。俊信の『訂正出雲国風土記』を、さらに読み易い仮名書きにし、好評を博す。同年、出雲の718の名所地名を纏めた『出雲名所集』も編纂した。古の人達は各々の地に霊が宿ると考え、地名には神話や信仰により発生したものが多い。風土記が山川原野の地名由来や土地の伝承を記す所以だ。名所を詠むとは、その霊のため歌を捧げることだと、芦田耕一元島大教授はいう(『江戸時代の出雲歌壇』)。
『出雲国名所歌集』の作者は出雲歌人をはじめ、芳久が遊学した紀伊、俊信門下の岩政信比古がいた周防など諸国にわたり、会津や薩摩の歌人も見られる。芳久は同歌集の初編で、出雲の名所や神代の旧跡を含んだ歌の寄稿を呼びかけ、大阪、京、紀州、江戸、雲州の五つの書林を送付先に挙げた。二編ではこれらに名古屋、大垣、会津若松、徳島、姫路、岡山、広島、長崎、熊本、萩の10書林が窓口(発行書房)として加わっている。そこには富永家を含め、当時約50家あったという大社御師の人脈や情報網が活用されていただろう。『名所歌集』には、豊前や大坂に檀所をもつ田中清年、関東から陸奥一円にもつ坪内昌成、尾張、信濃、美濃にもつ中村守臣(もりおみ)など、俊信門下の御師(社家)たちの歌も入っている。これら御師たちは、歌の教養で布教先の人々の尊敬を集め、親睦を深めていた。
その経験を受け継ぐ尊福も、明治4(1871)年春に赴いた東京で、江戸における本居学の中心にあった伊能頴則(ひでのり)邸の歌会に参加し、自らの旅邸でも歌会を開いている。その参会者の中に、後に出雲大社福岡分院を開く広瀬玄鋹の父綱張と、玄鋹と共に境内図書館の開設に尽力した江藤正澄(柳川藩士)の名がある。玄鋹は明治35年『福岡図書館報』第1号の巻頭に、尊福が開館を喜んで詠んだ歌「千萬(ちよろず)の書(ふみ)見る窓の明くれに国の光もさしやそふらむ」を載せた。図書館内に和歌の「八雲会」を作り、会主を務めた玄鋹の胸中には、大社御師の経験と出雲歌壇をこの地で、という思いがあったことだろう。