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岡本雅享
千家俊信が初の鈴屋(伊勢の本居宣長私塾)遊学から帰国して間もない寛政8(1796)年3月13日、俊信の甥、第77代尊之国造に長男が生れた。江戸後期出雲歌壇の興隆を導く尊福の祖父、第78代尊孫(たかひこ)国造だ。梅之舎の学統を受け継いだ尊孫は、俊信が没した翌天保3(1832)年10月に国造となり、出雲歌人の結社「鶴山社中」を作って歌の指導に努めた。技巧より思いを尊重する尊孫主導の自由な歌詠みが、松江や広瀬など出雲国内一円に広がる中、尊孫は天保9(1838)年、作歌の手引書『比那能歌語(ひなのうたがたり)』を刊行し、名声を得る。天保13(1842)年には、出雲の歌人341人の1320首からなる『類題八雲集』を刊行し、出雲歌壇の層の厚さを天下に知らしめた。
同時に尊孫は天保11(1840)年4月に21歳で早世した三男、尊朝(たかとも)を偲ぶ歌集『類題柞舎(ははそのや)集』も刊行した。尊福の叔父(尊澄の弟)にあたる尊朝は、幼少から歌を詠み、5才で百人一首を諳んじる歌の神童だった。歌集には7、8歳時の7首を含め尊朝の全1368首が載る。尊がも幼少から歌を詠んだのも、その家系故と頷けよう。明治初年に三河の村上忠順が編んだ『類題嵯峨野集』には、尊福の弟、尊紀(第81代国造)が8歳で詠んだ歌もある。
各地の歌人は、大部な二集を同時に刊行した尊孫と出雲歌壇に注目するようになった。万延・文久期(1860~64年)に伊勢の佐々木弘綱が編んだ『類題千船集』(全三編)は、尊孫の歌を221首も収めている。尊孫作のみによる『類題真璞(またま)集』と『自点真璞集』は合計約6000首に及ぶ。尊孫には「天の下つくり給ひし大神に仕へまつるもおほけなの身や」(出雲神)など、国造ならではの歌も多い。周防の近藤芳樹は大坂の書肆(しょし)に尊孫の短冊を送る際「国造は神代より嫡々相承(そうしょう)の人にて、全く生神と世上に崇敬」され、「千家国造之歌一葉」は「御身之守」になると述べている(安政3年8月28日付け書状)。出雲大神の御杖代たる国造が詠む歌は、神の言霊を宿す。その宗教的権威を伴う出雲歌壇の盛行がまた、大社の神威を高めたのである。
文化7(1810)年9月20日に生れた尊孫の長男、尊澄(たかすみ)も俊信やその高弟に学び「后梅之舎(のちのうめのや)」と号し、『歌神考』や『松壼文集』などを著した学者にして歌人だった。尊澄は弘化3年正月「友鶴も二葉の松も栄えつつ千家に千代の春は来にけり」と詠む。前年夏に男子(尊福)を授かった喜びを、年末に父(尊孫)に奉った鶴の番(つがい)とかけ合わせた歌だ。その尊福が23歳の時に生じた維新に対応すべく、尊孫は明治2(1869)年正月、国造職を尊澄に譲る。79代国造となった尊澄は、尊福を連れ京へ赴き、3月初めに参内して位階を授かった。京では尊澄の母の実家、園基祥(そのもとさち)邸に1月滞在し、在京中の尾張藩校明倫堂の教授、植松茂岳(しげおか)ら各国有力者らと歌などを介して交流している。
尊孫は明治5年11月19日に尊福が第80代国造に就くのを見届け、翌6(1873)年1月1日に薨去した。尊澄も明治11(1878)年8月21日に亡くなる。尊福は明治21年、尊孫(34首)、尊澄(26首)、尊福(40首)の三代国造の計100首で編んだ『風教百首講説』を刊行した。尊福が教えを説くため和歌を活用したのは、出雲神道のため歌を詠むという、俊信以来の思いが尊孫、尊澄を経て受け継がれたからだろう。