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岡本雅享
江戸後期出雲歌壇の源となる千家俊信は明和元(1764)年1月16日、第75代千家俊勝国造の三男として生まれた。幼少から学問を志し、松江で漢学を、京で崎門朱子学や垂加神道を学んだ。天明6(1786)年9月に大社を訪れた伊予の鎌田五根(いつね)(三島神社神主家、1720~1801年)から、橘家(きっけ)神道も伝授されている。
俊信は先祖の出雲臣広嶋が古代に編纂した出雲国風土記(733年)の探究に努めた。そのため寛政4(1792)年、弟清足(1770~1851年)と共に“風土記翁”内山真龍(またつ)(1740~1821年)と本居宣長(1730~1801年)の門人となる。
遠江の内山真龍は賀茂真淵の門人で、天明7(1787)年に注釈書『出雲風土記解』を公表していた。現地見聞を重んずる真龍はその前年、出雲へ旅している。真竜は寛政4年春に著書『出雲神賀詞』を携えて遠江へ来た若き俊信を賞し「八雲立つ出雲の臣は賢きや神の賀詞を持ちてかよはく」と詠んだ。
同年秋には真龍の勧めで、伊勢の本居宣長(鈴屋(すずのや))へ入門。前年『古事記伝』第一巻を杵築大社に奉納し、「出雲神賀詞」注釈を執筆中だった宣長も「出雲は別して格別の神迹(しんじゃく)」と俊信の入門を喜び、古学研究の手法を伝授した。宣長から俊信が受けた書簡は33通にのぼる。
俊信の名著『訂正出雲風土記』は寛政9(1797)年夏に校合(きょうごう)を終え、文化3(1806)年夏に刊行された。俊信は宣長の『古事記伝』に倣い『出雲国風土記伝』も書こうとしていた。その草稿らしき書(『神道学』117号)には「当国の風土記は出雲神道の旨を主として書かれたれば……他の風土記とは違う」「古事記は日本書紀よりはいと直(すなお)にして、古伝説のままを書して殊外(ことのほか尊ひ書ぞ、この風土記も古事記にもれた説も多くありて、古事記に劣らぬ古書なれば、国学をする人は先づ拝見いたさいでは適(かな)わぬ書」だとある。古事記に劣らぬ風土記をもって、独自の出雲神道を築こうとした俊信の気概が伝わる。
俊信は出雲国学の研究に打ち込む傍ら、寛政8(1796)年、千家国造館近くに私塾、梅之舎(うめのや)を開き、宣長流の古学(国学)や和歌を教え始めた。当時の出雲では儒教の影響が強い垂加神道、保守的な二条派の歌道が主流だったが、仏教・儒教の浸透以前の古典を読み、古人の心を知って歌を詠むよう説く宣長の教えが、俊信を通じて広まった。槍術(そうじゅつ)、医学、天文など諸芸に達した俊信は優れた歌人でもあり、それを継いだ千家尊孫らが出雲歌壇を開花させていく。
寛政12(1800)年から文化13(1816)年までの梅舎授業門人姓名録には、出雲をはじめ伯耆、備後、美作、安芸、周防、阿波、駿河など224人の名が連なる。俊信は天保2(1831)年5月7日に没するが、その百日祭の献歌(梅の下かげ)48首のうち、直系の尊孫、尊澄を含む39首の作者は門人録に載っていない。最終的な門人数は遥かに多いとみられる。
梅之舎は幕末に出雲国四歌集を編む富永芳久(1813~1880年)や津和野藩養老館教授となる岡熊臣(1783~1851年)などの逸材を輩出した。俊信によって出雲を発信源とする学問や歌詠みの、列島各地に及ぶネットワークが広がったのである。